【特集】ニュー・ウェーヴと世界のビートが出会ったとき

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70年代後半に登場した初期のニュー・ウェーヴ・バンドの多くは、過去数十年のロックの進化を支えてきたのと同じリズムを刻んでいた。だが80年代前半になると、アフリカ、インド、アジアといった地域のサウンドを取り入れることで作品に新鮮味を加えようとするバンドが増え出した。

当時は世界的な成功を目指す大物から知られざる革新的グループまでがこぞって、世界を股にかけた新しいロック・サウンドを鳴らしていたのである。この記事ではその一端を紹介しよう。 

ジャマイカ、レゲエとUK

ジャマイカは、英米両国以外で最初にニュー・ウェーヴの流行、とりわけイングランドにおける流行に影響を与えた国の一つだ。新世代のグループたちは、高揚感のあるスカのリズムとパンク特有のエネルギーを融合。マッドネス、ザ・スペシャルズ、ザ・セレクター、ザ・ビートといったバンドが1979年以降に作品を発表し始めたことで勃興した2トーン・ムーヴメントが、その担い手になった。

他方、安定感抜群で深みのあるルーツ・レゲエのサウンドは、それ以前から英国ロック界に進出していた。それは、ポリスがレゲエとニュー・ウェーヴの融合を実現させていたからだ。ドラマーのスチュワート・コープランドは1979年、トラウザー・プレス誌のジム・グリーンにこう話している。

「俺たちにとってレゲエのフレーズを演奏することは、ブルースのフレーズを演奏するのと似ている。つまり、やらずにはいられないんだ」

そのコープランドは、プログレッシヴ・ロック・バンドのカーヴド・エアに在籍していた経歴の持ち主。残るバンド・メンバーのスティングとアンディ・サマーズも、ジャズからサイケデリアまで幅広いジャンルで経験を積んでいた。とはいえ、彼らはUKにおけるパンク・ブームに触発されて、新たな領域の開拓を目指し始めた。そして、ブルース・ロックをはじめとする往年のロックの要素をジャマイカ音楽からの影響に置き換えることは、その実現にあたってこれ以上ない方法だったのである。

彼らが1978年に発表したポリスとのデビュー・アルバム『Outlandos d’Amour』では、重厚なレゲエ・グルーヴが「So Lonely」「Can’t Stand Losing You」、ブレイクのきっかけとなった大人気曲「Roxanne」などのヒット曲を支えている。そして彼らは同作収録の「Masoko Tanga」で、異文化を融合させる手法をさらに発展させた。同曲ではファンク、レゲエ、アフロポップを組み合わせた激しい鼓動のようなビートに乗せ、スティングが独自の言語で歌うのである。

それ以降も、ポリスの面々はあらゆる文化を取り込む作風を推し進めた。フランス語で歌われる「Hungry For You」、アフリカ風のポリリズムを使用した「Walking In Your Footsteps」や「Miss Gradenko」はその好例である。

また1979年ごろになるとスリッツも登場。彼女たちはアルバム『Cut』にダブ/レゲエやファンクの要素を取り入れ、ポスト・パンクの新路線を打ち出してみせた。

他方、大西洋を越えたアメリカでは、トーキング・ヘッズが1979年作『Fear Of Music』収録の「I Zimbra」でアフリカ音楽の要素とDIY精神を組み合わせていた。彼らはそののち、1980年発表の『Remain In Light』で本格的にアフリカ大陸からの影響を取り入れることとなる。

ジャパンと日本・東洋

英国に話を戻すと、”ジャパン”と名付けられたグループが、ルーツであるグラム・ロックを捨てて東アジアの情景を想起させるサウンドを奏で始めた。特に1980年作『Gentlemen Take Polaroids (孤独な影)』は、日本のシンセ・ポップの草分けであるイエロー・マジック・オーケストラからの影響が前面に出た一作だ。実際、同作にはYMOの坂本龍一がゲスト参加している。

ドラマーのスティーヴ・ジャンセンは多様な民族からの影響を取り入れたリズムを刻み、フレットレス・ベースを操るミック・カーンはシンコペーションを多用してうねるようなベース・ラインを弾き、デヴィッド・シルヴィアンとリチャード・バルビエリはアジア風の音色のシンセを弾いた。「Swing」や「My New Career」といった楽曲は、それらすべてが合わさることで異国情緒溢れる現代的で洗練されたサウンドに仕上がっている。

また帝国主義を皮肉ったタイトルが示唆している通り、「Taking Islands In Africa」のリズムにはアフリカ音楽の影響がほのかに感じられる。そのあと同グループは、1981年作『Tin Drum (錻力の太鼓)』でアジア的な作風をいっそう推し進めていった。

ガブリエルとサイモン

ピーター・ガブリエルのソロ作品は、彼が以前在籍していたジェネシスのプログレ・サウンドよりはるかにニュー・ウェーヴに近いものになっていた。自身の名を冠したアルバムを次々にリリースしていた彼は、その1980年の顔が溶けているジャケット『Peter Gabriel III』から世界に目を向けたアプローチへと少しずつ接近。その後、そうした作風は彼の作品の大きな特徴になっていった。

例えば強迫観念を題材とした「No Self Control」では、広がりのあるマリンバのフレーズが楽曲をリードするが、これはバリ島のガムランの特徴である打楽器の合奏を想起させる。

また、ポール・サイモンが1986年に『Graceland』を発表する何年も前に南アフリカのアパルトヘイト制作への批判をこめた画期的アンセム「Biko」では、同地の民族音楽の音源を抜粋して使用。さらに同曲では、ガブリエルのかつてのバンドメイトであるフィル・コリンズが、スルドというブラジルの打楽器でアフリカ音楽のパーカッションを再現している。そしてガブリエルはこの次のセルフ・タイトル作で、同作以上に多様な文化からの影響を取り入れてみせた。

80年になって

1980年も後半になると、ストレートなロック・サウンドで知られたグループでさえも、世界各地の音楽からの影響を取り込むようになっていた。例えばXTCはそのころまで、疾走感のあるパワー・ポップ/ニュー・ウェーヴ・サウンドを得意としてきたが、ドラマーのテリー・チェンバースは当初から、ビートの固定観念を壊そうとする独特な考えの持ち主だった。

そして1980年の『Black Sea』の収録曲である「Living Through Another Cuba」や「Burning With Optimism’s Flames」で、彼はそのドラミングをいっそう進化させ、ロックにアフリカやラテン・アメリカの要素を混ぜ合わせたようなリズムを披露した。

それに続くアルバムであり、幅広い要素を組み込んだ2枚組LP『English Settlement』でXTCの面々はさらに冒険的な作品作りに踏み出した。同作からは、風変わりなラテン・サウンドの「Melt The Guns」、サブサハラアフリカのダンス・トラックといった趣の「Snowman」、タイトルに特徴がよく表れた「It’s Nearly Africa」などが生まれている。

独特なドラム・スタイル

アフリカ音楽の影響に関して言えば、1980年の終わりにはポップなポスト・パンクの世界でブルンジ共和国特有のドラム・スタイルの使用をめぐる争いも起きた。そのきっかけは、アダム&ジ・アンツのラインナップが変わったことだった。同時に彼らはそのスタイルをパンクから、ニュー・ウェーヴやグラム・ロック、エンニオ・モリコーネの音楽、そして活気溢れるブルンジ風のドラミングを組み合わせた前代未聞のサウンドへと変化させたのだ。

一連の出来事は、アダムがセックス・ピストルズのマネージャーだったマルコム・マクラーレンとの関係を絶ったことに端を発する。すると後者は、アダムのもとからバンド・メンバーたちを引き離した。そして彼らをビルマ (現ミャンマー) とイギリスの血を引く10代のシンガー、アナベラ・ルーウィンと組ませ、似たリズム・スタイルを特徴とするバウ・ワウ・ワウを結成させたのだ。

それを受けて新たなアンツのメンバーを迎えたアダムは、『Kings Of The Wild Frontier (アダムの王国)』を発表。このアルバムでアダム率いるグループは優位を保ったが、ライバルであるバウ・ワウ・ワウのデビュー・シングルでラジオから流れる音楽をテープに落とすことを賛美した「C30 C60 C90 Go」のエネルギッシュな魅力はいまでも薄れていない。

ダンスに合う音楽

世界各地からの影響を取り入れる手法は1981年までに当たり前のものとなり、イギリスの新人グループには”ダンスに合う音楽”が求められるようになっていった。そうして英国のチャートには、ファンク色の濃いポスト・パンク・バンドの一群と並び、そのようなグループの楽曲も続々ランクインするようになった。

サルサ音楽の影響を強く受けたサウンドでニュー・ロマンティック・シーンと一線を画したブルー・ロンド・ア・ラ・タークやモダン・ロマンス、ラテン音楽/アフリカ音楽/ジャズ・ファンクを自在に融合させたピッグバッグなどはその代表格である。

他方、同時期にはイギリス人とアメリカ人が手を組んで、知性的でありながらファンキーな新しいサウンドを作り上げた例もあった。ガムランに精通した新生キング・クリムゾンや、中東やアフリカの音楽を取り入れたデヴィッド・バーンとブライアン・イーノのコラボレーションはその好例といえよう。

また、アーラープなどのバンドの登場によってパンジャーブ地方のフォーク・ポップがイギリスで大流行すると、インド音楽もイギリスの音楽シーンに影響を及ぼし始めた。例えばシンセ・ポップ・グループのブラマンジェは1982年、英国における彼ら最大のヒット曲「Living On The Ceiling」を発表したが、同曲はバングラという音楽に着想を得たようなリフを特徴としていた。

さらにインド系イギリス人シンガーのシーラ・チャンドラをフロントに据えたモンスーンも、同じころに魅惑的なデビュー・シングル「Ever So Lonely」を英国でヒットさせている。

そんな彼らのデビュー・アルバム『Third Eye』は、インドのポップやラーガとニュー・ウェーヴを融合させてサイケデリアを少々加えたような、高揚感と推進力のあるサウンドの一作。同作でモンスーンはすべての原点に立ち返るかのように、英国ロック界でいち早くインド音楽の影響を取り込んだ重要曲であるザ・ビートルズの「Tomorrow Never Knows」を独自のアレンジでカヴァーしてもいる。

海の向こうのアメリカでも同様の動きがみられたが、同国に移り住んだ英国人もその一翼を担っていた――。変化に富んだキャリアを歩むジョー・ジャクソンは、ニューヨークに拠点を移したのち、現地のラテン音楽シーンに新鮮な刺激を受けた。

そして彼はそのエネルギーを作品に取り入れつつ自身のサウンドを刷新。ギターを完全に排し、ラテン風のピアノ伴奏とサルサ音楽の打楽器奏者であるスー・ハジョプロスを新たなスタイルの中核に据えたのである。ジョー・ジャクソンは1983年、ミュージシャン誌のデヴィッド・ガンズにこう念押しした。

「最近はロックンロールとは違う音楽が出てきている。いまのニューヨークには優れたジャズや、ラテン音楽、ファンクがある。誰がロックンロールを求めているっていうんだ?」

そして同時期に発表された『Night And Day』はジャクソンにとって最大のヒット作となった。特に名曲「Another World」では、ニューヨークに住むプエルトリコ人とイギリス人の音楽センスを融合させたサウンドが一際輝きを放つ。ハジョプロスのティンバレスとジャクソンのピアノが夢のような世界観の歌詞と組み合わされることで、同曲は彼の作品群の中でもとりわけ心を揺さぶる一曲に仕上がっているのだ。

モーテルズのギタリストだったティム・マクガヴァンは、グループがスターダムにのし上がる以前に脱退を決意した。そして彼は目新しいサウンドを求めて、ロサンゼルスでバーニング・センセーションズを結成。その音楽性は、ラテン、アフリカ、カリブ海といった地域の音楽と、ニュー・ウェーヴやサイケデリアを融合させた魅力的なものだった。しかし、爽快感に満ちたシングル曲「Belly Of The Whale」は一定の注目を集めたものの、同グループはEPとアルバムを一作ずつ残したのみでその活動を終えた。

バーニング・センセーションズをはじめとする米国の野心的なグループにとっては不幸なことに、同国では少なくとも80年代中盤まで、ワールドビートの影響を取り入れた音楽が大衆からの人気を得ることはなかった。だが80年代前半には、パンクによって固定観念から解放されたロック・ミュージシャンたちが世界各地の音楽に目を向け、自由への新たな道を切り拓きはじめた。そしてその動きからは、驚くほど素晴らしい音楽が生まれたのである。

Written By Jim Allen

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