ビリー・アイドル『Billy Idol』解説:自信に満ちたソロ・デビュー・アルバム

反抗的で不敵な笑みを浮かべ、胸元の開いたレザー・ベストを羽織り、頭はブロンドのスパイク・ヘア。そんな風貌のビリー・アイドル(Billy Idol)は、デビュー・アルバムのジャケット写真で自らを「象徴的存在」として決定づけ、そしてジェネレーションXのヴォーカリストとしてイギリスのパンク・シーンに初めて登場した。

ジェネレーションXはテレビ番組『トップ・オブ・ザ・ポップス』に出演し、契約先のレコード会社に多額のボーナスを要求した。そのため、パンクの世界で「売れ線に走った」と烙印を押された最初のバンドのひとつとなった。こうした行動からも暗示されるように、ビリーはメジャーなポップスの世界で成功してやるという粘り強い執着心を持っていたのだ。 

デビューEPの発売まで

1981年にジェネレーションXの活動から離れた後、ビリーはニューヨークに移住する。そしてキッスの成功を支えたマネージャー、ビル・オーコインと契約してキャピトル・レコードと契約を果たした。過去にドナ・サマーやスパークスを手掛けたプロデューサーのキース・フォーシーと組んだビリーは新曲のレコーディングを開始し、それが初めてのソロEP『Don’t Stop』として結実した。

この4曲入りEPは同じ年の10月に発表され、ビリーをユニークな存在として世間に再認識させる役割を果たしていく。そのあいだもビリーとフォージーはさらにフル・アルバムのレコーディングを続けていた。

アルバム『Billy Idol』からの先行シングル「Hot In The City」は、1982年の初夏にラジオやナイトクラブで流れ始めた。これはラジオにぴったりの聞きやすい曲で、いかにも80年代らしいシンセサイザー、ロック・ギター、ステファニー・スプルーユのソウルフルなバック・ヴォーカルという完璧な処方箋で作られていた。

このシングルが全米シングルチャートにランクインすると、キャピトルは抜け目なくプロモーション・ビデオを制作した。このフォトジェニックなアーティストが、当時人気を集めつつあったMTVで有利な立場を獲得できると考えたのである。そうして7月にフル・アルバムが発売される頃になると、世間の側には彼を受け入れる用意ができていた。

MTVとビデオの力

このアルバムの第2弾シングル「White Wedding」は、MTVの力をまざまざと証明した。ろうそくと十字架でゴシック風の魔力の神秘性を表現したこのビデオは、当時賛否両論を呼んでいた悪魔崇拝論争からも利益を得ることになった。たとえばある評論家は、このビデオには「黒ミサを構成する要素がすべて含まれている」などと指摘している。

このシングルは全米シングルチャートでは前曲の「Hot In The City」の順位(最高23位)に及ばなかったがMTVではヘビー・ローテーションとなり、いまだにビリーの最も有名なヒット曲として認識されている。

当時の評判

「もしマーク・ボランが今もまだ生きていたら、おそらくこんなアルバムを作っていただろう」。米ビルボード誌は、ゴールド・ディスクに認定されたこのアルバムをそう褒め称えた。さらには、さまざまなマーケットで受け入れられそうなサウンドとAOR的な方向性を高く評価していた。

またヴァラエティ誌はビリーをデヴィッド・ボウイになぞらえながら、彼の「繊細なテクノ風味のダンス・ロック・チューン」と「皮肉っぽいニューエイジ的な態度」を称賛している。

評論家たちが気に入っていたアルバム収録曲は疾走感のある「Dead On Arrival」や「Nobody’s Business」で、こうした曲は他の収録曲の洗練されたポップ・ソング路線から非常にかけ離れていた。一方「Love Calling」や「Shooting Stars」では、そうした激しさが和らげられていた。

当時の評論家の中には、ビリー・アイドルはレコード会社の重役やマネージャーがでっち上げたものに過ぎないという人もいた。ビリー本人の発言によれば、そうした批判は真実からまるでかけ離れていた。彼は『ナイト・トラックス』のインタビューで次のように語っている。

「俺は自分のやることをほぼすべてコントロールしている。他の人間が色々邪魔をしようとしてきたけどね。だからこそ、ファースト・アルバムを『Billy Idol』という題名にした。というのも、ロックンロールの世界ではいろんなクズみたいなことに巻き込まれかねないけど、そういったものから自分を解放しようとしてあのアルバムを作ったわけだからね。あれは俺の再出発だったんだ」

Written By Tim Dillinger

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