ブラジル日系社会に対する政治的迫害の認識に関する歴史見直しの日

 第2次世界大戦後、ブラジル日系社会は政府による政治的迫害に直面し続けた。エスタード・ノーヴォ時代(1937年~1945年)に始まった政府の政治的迫害。権利の制限・強制収容所への収容、集団追放、財産の没収などが日本人移民に行われた。

 7月25日午後2時、恩赦(アムネスティ)委員会(市民権・人権省MDHC)は、1946年のウバトゥーバ(サンパウロ州)のアンシェッタ島の事例と、1943年のサントスからの追放の事例に基づく、日本人コミュニティへの金銭的補償を伴わない集団的賠償のプロセスの審理を行う。申立人は、ブラジル沖縄県人会とこの運動の発起人である奥原マリオ・純氏である。

真相究明委員会からの経緯

 2013年10月10日に開催されたサンパウロ真相究明委員会の第83回公聴会では、国家真相究明委員会の支援のもと、1946年から1947年にかけてブラジルで発生した日系移民の拷問死事件が議論された。
 この公聴会は、戦後の侵害に関するドキュメンタリー映画と詳細な報告書を制作した奥原マリオ純氏によって提案された。山内房利と池田福夫のケースに関する証言だった。最終的に、真相究明委員会は日系移民に謝罪した。

戦後

 第2次世界大戦中、日本人移民が敵国人として見られ、戦後はテロリストの疑いもかけられた。
日本語の新聞、集会、母国語の使用さえ禁止されるなど、厳しい制限を受け続けた。
 このため、サンパウロではコミュニティが二極化し、内部攻撃さえ起こった。
DOPS(社会秩序・政策局)が、ブラジルの新しい憲法の時代にもかかわらず、強硬な弾圧を続けたことも一因だった。 ブラジルは、1946年にエウリコ・ガスパール・ドゥトラが選出され、憲法が公布されたことで、民主主義を経験し始めていた。
その年、山内と池田は逮捕され、ウバトゥバのイリャ・デ・アンチエタ矯正院に連行された。 正式な罪状もないまま、ふみえという屈辱的な精神的圧迫を含む違法な取調べが行われた。日本の国旗が地面に置かれ、警察官はそれを踏むよう移民に命じた。
移民はそれを踏むように命じられた。踏んだら解放された。山内房利と池田福夫は警官の命令を拒否し、アンシャッタ島に連行された。
 どちらも拷問と虐待に苦しんだ。山内房利は抵抗し、島にいた171人の日本人が生き残ることを最優先してリーダーシップをとった。池田福夫は拷問に耐えられず、1948年に亡くなった。

撤回要求

山内と池田のケースに基づき、真相究明委員会は、国家による弾圧がブラジルの日本人社会全体に影響を及ぼしたことを認めた。マリオ・ジュン・オクハラは2015年11月、ブラジル国家からの非賠償的撤回要求をアムネスティ委員会に提出した。 2018年には、ブラジルの沖縄県人会がこの行動に参加し、6500人の日本人移民とその子孫のサントス市からの追放に関する調査に貢献した。
1943年にサントス市から追放された6500人の日本移民とその子孫の調査に貢献した。
過去の過ちを公式に認めることは、単なる撤回ではなく、差別や暴力に対する警戒を呼びかけるものであり、出身や民族に関係なく、すべての人々に対する尊厳と尊重を保証するものです。
ブラジルの日系移民のための歴史的正義の探求にご参加ください。

上原ミルトン定雄元沖縄県人会長、高良律正会長、ブラジル沖縄県人移民塾の宮城あきら代表、島袋栄喜元会長、奥原マリオ純さん、深沢正雪ブラジル日報編集長

1943年のサントス市からの強制退去者を追悼するミサ
サンゴンサロ教会
日時:2024年7月14日午前8時
住所:Praça Dr. João Mendes, 108, São Paulo, SP

恩赦委員会審議
日時:2024年7月25日午後2時
住所:Edifício Sede do MDHC, Esplanada dos Ministérios, Bloco A, Auditório do Subsolo, Brasília – DF

人権・市民権省チャンネルでライブ放送
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