強制疎開でマラリアに 波照間島住民の沖縄戦 疎開命じた軍人は「勢いで軍と一緒に行動」責任回避 #あなたの623

沖縄戦について考えるシリーズ「#あなたの623」。2作目の本記事では、沖縄戦当時に波照間島からの「マラリア」有病地帯への疎開を強いられ、いわゆる「戦争マラリア」によって家族を亡くした男性の体験をお伝えします。(6月19日NEWS Link放送回)

6月15日。波照間島で開かれた、慰霊碑の建立記念式。慰霊碑は沖縄戦当時、疎開を強いられた住民がマラリアに感染して命を落とした、いわゆる「戦争マラリア」の犠牲者などを悼んで建てられました。

▽慰霊之碑建立期成会・内原勲会長(76)
「400人あまりの方が亡くなっているのにどうして波照間には慰霊碑がないのということで、慰霊碑を建立しようと。(碑文を)読んで理解して後世にその事実を語り継ごうという狙い」

八重山諸島の住民は、旧日本軍によって、蚊を媒介する感染症であるマラリアの有病地へと疎開を強いられ、3600人あまりが亡くなりました。

そのなかでも、最も被害が大きかったのが波照間島です。

疎開した1590人の住民は、99%がマラリアに感染し、3割にあたる477人が命を落としました。慰霊碑は当時の疎開先、西表島に向かって建てられています。

よく知らずに疎開させられた西表島はマラリア有病地帯だった

波照間島出身の佐事昇さん(91)は、西表島への疎開を命じられた当時、12歳でした。
▽佐事昇さん(91)
「(西表島が)どんなところかも分からんし、子どもだから。マラリアも西表島にあると分からないし」

1945年4月、西表島へと疎開した波照間島の住民は、南風見田の海岸に小屋を作って生活を始めました。しばらくすると、マラリアに感染した住民が、ひとり、またひとりと、命を落としていきました。

波照間島へ帰ることができたのは、沖縄戦が終結したあとの8月。しかし、故郷の地では、更なる苦しみが待ち受けていました。

▽佐事昇さん(91)
「波照間に終戦になって帰ってからが、食料がなくて苦しかった。みんなソテツを食べた」

旧日本軍は、波照間島の牛や豚を米軍の食料にさせないために、徹底的に処分。そのため、疎開を終え帰島した住民たちは戦後も食料難に陥りました。栄養が不足した住民の間でマラリアがまん延し、死者の数は爆発的に増加。墓に入りきらない数百人の遺体が。島の北側の浜(サコダ浜)に埋められました。

佐事さんもこのとき、3人の家族を亡くしています。

▽佐事昇さん(91)
「お母さんと弟と妹はマラリアで亡くなった。あんなに毎日人が亡くなったらもうなんとも思わんよ。毎日葬式なのに」

家族の死にすら、何も感じなくなるという異常な日々。その発端となった疎開を命じた人物を、佐事さんは覚えていました。

▽佐事昇さん(91)
「山下という人が命令した。『西表島へ疎開しろ』と、あの人のために」

山下虎雄と名乗る人物は、本名を酒井喜代輔(さかいきよすけ)といい、陸軍中野学校を卒業した軍曹でした。RBCが1992年に行った取材に対して、疎開を命じた責任から逃れるような発言をしています。

疎開命じた軍人は責任回避「(住民は)勢いで軍人と一緒に行動を共に」

▽電話取材 山下虎雄こと酒井喜代輔氏(1992年当時)
「当時の旅団長の命令もあったし、各島に対して疎開して身の安全を守ろうと。軍官民一致でね、とにかく敵に向かってさ、玉砕するというような時代でしたからね。(住民は)まぁ勢いで軍人と一緒に行動を共にしてしまうんじゃないすか?」

▽佐事昇さん(91)
「山下が悪いわけ。いらんこと言って。わからん、なんで波照間住民をあんなに苦しめたのか」

波照間空港は現在、有事に備えて自衛隊などが円滑に使えるように整備する「特定利用空港」の候補に挙がっています。

波照間島に慰霊碑を建立した期成会の内原会長は、軍備増強が進む現状に警鐘を鳴らしています。

▽慰霊之碑建立期成会・内原勲会長(76)
「どんなに軍備増強しても、どんなに武器を作っても、僕は戦いでは平和にはならないと思う。飛行場がもし軍事関係に実用されるなら、むしろ要らない」

▽佐事昇さん(91)
「自衛隊はいない方が良い。自衛隊のいるところで戦の準備をして。今の若い人は戦争をやったことがないから、ああいう怖さもわからない」

かつて、軍命によって多くの住民が犠牲となった波照間島。体験者が語る史実が刻まれた慰霊碑は、有事への備えが進められる島々を、静かに見つめています。(竹内伊吹)

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