戦後79年一度も会ったことがない父の面影を探して

幼いころ、太平洋戦争で父を亡くした女性が高知市にいます。終戦後、何不自由なく暮らしていましたが、あることがきっかけで父を供養したいと強く願うようになりました。戦後79年。父の最期の地を、訪れました。絹川律さん「一度も、生まれてから一度も父は私の顔を見てないんですよ、もちろん私も会ったことがないから」

高知市の絹川律(きぬがわ・りつ)さん、81歳。太平洋戦争中の1943年(昭和18年)、朝鮮全羅南道(ちょうせん・ぜんら・なんどう)で生まれました。

父、曽我部守昭(そがべ・もりあき)さんは満州で、離れて暮らしていて、絹川さんが生まれた7か月後に軍属として第二軍司令部に所属し、飛行場建設のためニューギニア島へ。そのまま帰らぬ人となりました。

終戦を迎え、日本に引き揚げたのは1歳7か月の時。祖父母と養父母に大切に育てられ、寂しさを感じることはなかったといいます。

60年以上、「何不自由なく過ごしてきた」という絹川さんの日常が一変したのは、16年前、65歳の時でした。

実家の整理をしていたところ、父の遺品を見つけたのです。

『何回も曽我部氏曽我部氏と言ったが一言も言わず』『必ず必ず鈴木は遺骨を届けたい』軍隊手帳を破ったものと思われる紙に、父の最期が記されていました。

「石ころ一つで帰ってきてこんなものがあるとは知らなかったから本当にびっくりして」

鈴木上等兵の言葉を藤井技手が代筆したと書いてありますが、それが父の上司なのか同僚なのか、何も分かりません。

「悔やまれますのは私が気がついたのが、あまりにも時間が経ちすぎて遅かったものですから父の死に目を書いてくださった鈴木さんとか藤井技師さんという方が、もう既にもう今もう当然亡くなられてるでしょうし、家族の方のこともわかりませんので調べるすべがなくて、とても私はその方に感謝すると言いますか詳しい事情といいますかそんなことを確認できないということがとても残念に思われもう少し私がこれに気づくのが早ければ、時間的にね、もっと……いろんな方にね、繋がりができて、気持ちを伝えることができたんじゃないかと」

絹川さんは生後7か月の時、母に抱かれ戦地へ向かう父の乗る列車を見送りに行ったものの、会うことは叶わなかったと聞いています。

見つけた布の中には、戦地に向かう父が母に宛てた手紙もありました。

「お前たちに一目会えれば結構であるが、会えない場合は致し方がない。くれぐれも身体に気をつけて律子の発育に気をつけてくれ」本当に細やかに、非常にこと細やかにいろんなことを気にかけて書いてありますのでね。ずいぶん心優しい人だったんだなという気持ちはします」

父を供養できるのは残された自分しかいない。それ以来、父を探す日々が始まります。

絹川さんは父のことを『ニューギニアのマノクワリで飛行場の建設中に爆撃を受けて死亡した』と聞いていました。マノクワリはニューギニア島の西側にあり、現在はインドネシア領です。高知市に問い合わせると、その南の『ヤカチ』という場所で戦死したという記録があったため、厚生労働省にも問い合わせますが…返ってきたのは『地図に「ヤカチ」という地名は見当たらない』と書かれた文書だけでした。

「そっけない返事がきましてね、一応、略歴っていうものも添えられておりましたけれども、これに私は納得できずに個人で調べ始めたというのが元で…」

戦争を題材にした映画や書籍などで手がかりを探す中、ヤカチは確かにあり、太平洋戦争末期、ニューギニア島に上陸した旧日本軍が深刻な食糧不足に陥ってヤカチ周辺でも大勢の人が命を落としたことを知ります。

遺品を見つけてから16年。父の最期の場所を訪れたいと願っていた絹川さんに今年1月、思いもよらぬ知らせが届きました。国と協力し、遺骨収集を行う日本戦没者遺骨収集推進協会のヤカチでの事前調査に同行することになったのです。

「私も高齢ですし体調も悪かったんですけれども遺族の代表としていかなければならないという使命感でね」

調査は今年2月26日から11日間の日程で、遺骨収集推進協会のメンバーらとともにインドネシアへ向かいました。

ジャカルタから飛行機を乗り継ぎ、ニューギニア島へ。そこから数日かけてヤカチを目指します。

現地ではインドネシア政府の職員も同行し、日本政府が建てた慰霊碑を訪れたり、当時を知る人を訪ねたりもしました。

「マノクワリからは四輪駆動でここまで行きます。ビントニというところ。このビントニから川渕まで行って、ベラウ湾というところに一旦出て、それからヤカチの方に川を遡っていくわけです」

ヤカチはまさにジャングルの中。人口300人ほどの小さな村で、大人も子どももみんな裸足でした。絹川さんは緊張していたものの、子どもたちの屈託のない笑顔に迎えられたといいます。

「言わなくてもいいことだったかもわからないけれども、ここまで転進して日本の兵が来ましたと。そのときにね、助けられたこともあるでしょうからそれに対してはお礼を申し上げますと、だけど、ひょっとしたらこちらの方に食料を求めて…害を及ぼしたこともあるかもわからないから、それについてはお詫びを申し上げますということは付け加えましたね。うん。皆さんのおかげでね生き延びて帰ってこられた方もおられますっていうようなことで。うちの父は残念ながら…ちょうど反対側のところだと思うけど、亡くなりましたので、きょうここに来させてもらいましたっていうようなお話をしましてね」

日本人かもしれない骨があったという場所では、小さな慰霊祭をしました。

「高知から持ってきましたお水とかお酒とかお米とか、父親だけではなくて皆さんに「一緒に帰ろう」と声掛けしましてね、本当に誰もが帰ってない、まだそこで亡くなられた方が誰も帰ってないということで…非常に胸を打たれますね」

一度も会ったことがない父、守昭(もりあき)さん。81歳になって、その存在を近くに感じることができました。

「本当に結構ハードなスケジュールで、いろんな冒険もありましてとても普段の生活では乗り切れないようなことも多々ありましたけれどもそれを平気でね、他の方に遅れをとることなく、全てのミッションがこなせたっていうのがね、本当に不思議なんですよ」「ある程度私も使命だと思って緊張感もあって、かなりアドレナリンがたくさん出てたかもしれませんけれども…でもやっぱりそれだけじゃなくて周りのね、そういう不可思議な目に見えない力のサポートがあったんだと思いたいです」

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