「野球選手はパフォーマーであり俳優」ウィリー・メイズは究極の5ツール・プレーヤーにして究極のショーマンだった<SLUGGER>

6月20日(現地)、サンフランシスコ・ジャイアンツ対セントルイス・カーディナルスの一戦は、アラバマ州バーミングハムのリックウッド・フィールドで開催された。

現存するアメリカ最古の球場での試合は、単なる懐古イベント以上の意味を持つことになった。2日前の18日に、バーミングハム近郊の出身でもあるジャイアンツOBのウィリー・メイズが93歳で死去したためである。当初は顔を見せる予定だったメイズは、体調不良で欠席すると数週間前に発表されていた。

日本におけるメイズの知名度は、同年代のライバルであり、通算本塁打記録を長く保持していたハンク・アーロンを下回るであろう。だが、アメリカではメイズの人気が遥にアーロンを上回っている。同じ大選手でもアーロンは実直で堅実、安定した成績を残し続けた、いわば王貞治タイプ。メイズは一挙手一投足に華があり、存在自体がファンを魅了する長嶋茂雄タイプだった……と言えばその理由も理解できるのではないか。

例えば、老舗『スポーティング・ニューズ』誌が1998年に20世紀最高の野球選手100人を選出した際、1位のベーブ・ルースに次ぐ2位はメイズだった(アーロンは5位)。コラムニスト/作家のジョー・ポズナンスキーの著書『The Baseball 100』では、ルースを差し置いてメイズが1位。その理由をポズナンスキーは「人々の野球に関するありとあらゆる記憶が、メイズと結びついているからだ」と説明している。 メイズは単に優れた選手である以上に、野球というスポーツが最も輝きを放っていた時代の象徴であり、だからこそ多くのファンに敬愛されてきたのだ。その意味でも、メイズを長嶋になぞらえるのは的外れではないだろう。

メイズが生まれたのは1931年5月6日、アラバマ州ウエストフィールド。同じ州のモービルで生まれたアーロンより3歳年長である。17歳でニグロ・リーグのバーミングハム・ブラックバロンズに入団してプロ生活のスタートを切り、50年には当時ニューヨークに本拠を置いていたジャイアンツ(サンフランシスコへ移転したのは58年)と契約。翌51年にメジャーデビューを果たした。ただし、2020年になってニグロ・リーグもメジャーであったと認められたため、現在ではメイズの“メジャーデビュー”は48年とされている。

51年はさっそく新人王に選ばれたが、翌52年途中から朝鮮戦争のため軍隊生活を送り、復帰したのは54年。同年は打率.345で首位打者、MVPに選ばれただけでなく、クリーブランド・インディアンス(現ガーディアンズ)とのワールドシリーズ第1戦で一世一代のファインプレーを演じた。

2-2の同点で迎えた8回表、無死一・二塁の場面。ビク・ワーツが放ったセンター後方への大飛球を、ややレフト寄りに守っていた中堅手のメイズが猛然と追いかけ、背中を向けたまま捕球に成功。その直後に振り向いて二塁へ送球した。「ホームから135mくらいのところで肩越しに振り返った時も、ボールはしっかり見えていた。完璧なタイミングでボールはグラブに吸い込まれた」。のちに“ザ・キャッチ”、メジャーリーグ史上最高の守備として知られるようになった名場面を、メイズはこのように回想している。大ピンチをしのいだジャイアンツは延長戦の末にサヨナラ勝ち。そのまま勢いに乗り、この年アメリカン・リーグ新記録の年間111勝を挙げたインディアンスに4連勝を収めた。

メイズは究極の5ツール・プレーヤー、すなわち打撃の確実性とパワー、スピード、守備範囲の広さと強肩の5要素をすべて備えた選手だった。“ザ・キャッチ”も、そのうちの3要素が完全に揃ったからこそ成し遂げられたプレーである。

殿堂入りの外野手レジー・ジャクソンいわく「ベーブ・ルースは、ファンが見たいのは一つだけ(ホームラン)だった。ウィリーのファンは、彼の為す何もかもを見たいと思った」。

56年には36本塁打、40盗塁でMLB34年ぶりとなる「30-30」を達成。翌57年も35本塁打、38盗塁で、2年連続30-30を記録した最初の選手となった。65年には自己最多の52本塁打で4度目の本塁打王、2度目のMVP。通算3293安打(ニグロ・リーグ時代の10本を含む)、引退時点での660本塁打はルース、アーロンに次いで3位であった。
こうした事蹟を並べただけでも史上有数の大選手であるのは明白だが、前述の通りメイズの魅力はプレーそのものにあった。 彼自身が以下のように語っている。「野球選手はパフォーマーであり俳優。フライを追いかける時もファインプレーに見えるようにタイミングを計算していた」。その根底にあるのは「自分はファンのためにプレーしている。どの試合に訪れたファンにも、それまで見たことがないようなプレーを見せたい」とのサービス精神であった。

当然ながら、後に続く世代の選手たちに与えた影響も絶大だった。バリー・ボンズにとってメイズは名付け親でもあり(父ボビーがジャイアンツでメイズの同僚だった)、ピッツバーグ・パイレーツ在籍時にはメイズの背番号である24番を背負った。ケン・グリフィー・Jr.の背番号もシアトル・マリナーズ時代は24で、メイズがそうだったように、グリフィーの全盛期には全米の野球少年が24番に憧れた。

ボンズは「あなたの存在がどれだけ私にとって意味を持っていたか、言葉では表現できません。私が今あるのはあなたのおかげです」、グリフィーも「彼と一緒の時間を過ごせたことに感謝したい。グラウンドの内外で彼は真の巨人だった」と、それぞれ追悼のメッセージを寄せている。

最後の2年間はニューヨークに戻ってメッツに所属。73年9月の引退セレモニーにおいてメイズが発した「ウィリー、アメリカにお別れの挨拶をする時がきた」の一節は、球史に残る名文句として語り継がれてきた。その半世紀後、今度はアメリカがウィリーに別れの挨拶をしたのである。

文●出野哲也

【著者プロフィール】
いでの・てつや。1970年生まれ。『スラッガー』で「ダークサイドMLB――“裏歴史の主人公たち”」を連載中。NBA専門誌『ダンクシュート』にも寄稿。著書に『メジャー・リーグ球団史』『プロ野球ドラフト総検証1965-』(いずれも言視舎)。

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