失冠

 〈犬がヒトを咬(か)んでもニュースにならないが、ヒトが犬を咬んだらニュースになる〉…最初にこう発言したのが誰なのか、については幾つか説があるようだ。ニュースには驚きや意外性が欠かせない、という古典的な教え▲「もう藤井が勝ってもニュースじゃないよね」-同僚とこんな話をしたのは全冠ロードの途上だったか。並び立つ者のない“無双”を続けてきた将棋界の絶対王者▲その彼が初めて土俵際に追い込まれた叡王戦5番勝負の最終局。最終盤、ぺちっ、と力のない手つきで王手ラッシュを続けた。正しく逃げられたら絶対に詰まないと悟っていたに違いない。おそらく誰よりも早く▲藤井聡太さんの全冠独占とタイトル戦での無敗記録がストップした。風穴を開けたのは伊藤匠七段。昨秋の竜王戦、春の棋王戦に続く3度目の挑戦で結果を出した▲まだ中学生だった藤井さんの快進撃が社会現象を巻き起こしていた2018年の冬、藤井さんの大きな対局で伊藤さんは記録係を務めていた。〈勝たないでくれ、と心の中で呟い(つぶや)ていた〉と後の取材に語っている。引き離されるものかと強く念じ、追い続けた同学年の背中▲藤井さんの失冠は大きなニュースになった。しかし、相手が伊藤さんだったことは〈ヒトが犬を咬む〉ほどの驚きではなかった。(智)

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