長谷部誠がドイツで指導者になる意義。シャビ・アロンソのような実績を携えて日本代表を指揮する時が来れば、世界一が現実味を帯びてくる

昨シーズンで現役を退いた長谷部誠氏が、今後はアイントラハト・フランクフルトで様々なカテゴリーの指導に携わりながら、将来的には「トップチームの監督を目ざす」と語った。

日本代表の大半を欧州組が占める時代が到来しても、引退後も現地に残り指導者としての地位を確立した例は見当たらないだけに、同氏のチャレンジは意義深い。

日本サッカー界がプロ化に踏み切ると、選手たちの水準は見違えるように高まり、フェイエノールト在籍中に旧UEFAカップを制した小野伸二氏やドルトムントを国内二冠に導いた香川真司のように、国内トップレベルのクラブの成功を牽引する選手たちも現われた。

だが一方で指導者のハードルは非常に高く、複数のリーグを渡り歩くような選手が1つの国の言語をマスターしライセンスも取得して活動していくのは時間的にも困難だった。

実は日本人でも欧州で指導者として足跡を刻んだ指導者は存在した。1973年に東海大を卒業してドイツへ渡った鈴木良平氏は、黄金期真っ只中のボルシア・メンヘングラッドバッハに帯同しながらケルン体育大学でも学び、約2年間をかけてS級ライセンスを取得。1984~85年シーズンにブンデスリーガ1部のアルミニア・ビーレフェルトでヘッドコーチを務めている。

まだドイツが東西に分かれていた時代で、西ドイツは1980年の欧州選手権を制し、ワールドカップでも82年から3大会連続で決勝に進出するなど世界でも最高峰の実力を誇っていた。

しかしそのドイツの選手たちが、アマチュアしかない日本から来たコーチの指導を賞賛した。ところがまだ日本ではドイツでのS級取得の価値が理解されず、指導者への評価も現役時代の実績に重きが置かれていた。

結局帰国した鈴木氏は、日本女子代表の初代専任監督に任命され、男子に先駆けてラインディフェンスを導入するなど改革を図るが、改めてその実力が知られるのはブンデスリーガ等の解説を務めるようになってからだった。

これまで22回開催されたワールドカップで誕生した8つの優勝国が、全て自国の監督に率いられてきたのは周知の通りだ。世界チャンピオンは、選手だけではなく、指導者、レフェリー、メディアやファンも含めて、全ての水準が高まり、文化として成熟しないと到達できないという証左なのかもしれない。

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確かに日本の選手たちは、着実にトップレベルに肉薄している。また日本の指導者も、おそらく勤勉さでは、どこの国にも引けを取らない。しかし現実にトップシーンに身を置く指導者がいないので、新しい知識を学んだ頃にはすでに最先端から置き去りにされている可能性が高い。

日本でただひとりイングランドでUEFAプロライセンスの取得に成功した高野剛氏が語っていた。

「ピッチ上での指導についての学習は、全てA級までに終えます。プロコースは世界の最前線でリードしていく監督を養成する場なので、『誰かを模範に』と考えた瞬間に、それはもう第一線ではなくなる。合格するには、常に世界の最先端に何が起きているかを把握したうえで、その先を行く独自の見解を発信していく必要があります」

これまで日本代表は、3人の日本人監督に率いられて4度のワールドカップを戦って来た。だがどうしても経験値では監督が選手たちに及ばず、初出場だった1998年フランス大会の岡田武史監督以外は、選手たちの見解が重要なカギとなった。

しかし過去に世界の頂点を競ったバレー、バスケット、体操、水泳など他競技の例を見ても、日本人選手たちの特徴を活かした独自の発案を武器に戦って来た。それ以上に競争が厳しいサッカーの世界で頂点を見据えるなら、当然最先端を知る説得力とカリスマを備えた指揮官が求められる。

長谷部氏のキャリアは、十分にフランクフルトのトップチームを指揮する説得力を持つし、それは計16シーズンもドイツ一筋で戦い抜いた同氏だからこそ可能な挑戦だ。

もし彼がレバークーゼンで革命を起こしたシャビ・アロンソのような実績を携えて日本代表を指揮する時が来れば、本当に世界一が現実味を帯びてくるのかもしれない。

ドイツではフランツ・ベッケンバウアーが、フランスでもディディエ・デシャンが、主将と監督、いずれの立場でもカップを掲げ、キャプテンシーと指揮官の相性の良さを証明している。

文●加部究(スポーツライター)

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