「これからの時代、女にも学校が必要」…兄の勧めで進んだ女学校だが、勉強どころじゃなかった。知覧特攻隊に奉仕する毎日。250キロ爆弾を積んで出撃する若者を、何度も見送った。今も世界のどこかに戦死者がいる…生ある限り戦争の愚かさを私は伝え続ける【証言 語り継ぐ戦争】

特攻隊を見送る写真の前で思い出を語る桑代チノさん=南九州市の知覧特攻平和会館

■桑代チノさん(95)南九州市知覧町郡

 7人きょうだいの下から2番目の私をかわいがってくれた長兄が、志願して海軍に入り、お金を出してくれて知覧高等女学校に入学しました。「これからの時代は女にも学校が大事だ」と言っていた優しい兄でしたが、終戦の前年に24歳で戦死しました。

 自分の希望というより兄の勧めで入った女学校でしたが、当時は戦争の影響でもう勉強どころではありません。同級生は約100人。3年生に上がる直前の1945(昭和20)年3月27日から、知覧飛行場へ奉仕に行くことになりました。

 家から1時間以内で通える生徒ということで、最初は20人くらい。私は家が近かったけれど、毎朝7時前には家を出て、隊員が寝起きした三角兵舎に行きました。

 兵舎は林の中にあり、半地下式で、板を重ねてよくできていました。それでも、大雨が降ると水が入ってきて大変でした。井戸から水をくんできて兵舎の拭き掃除をしたり、隊員の靴下やマフラーを洗濯したりするのが私たちの仕事でした。

 私は、特攻隊を護衛する飛行戦隊の担当でしたが、兵舎にいる時に伝令が「何時に特攻隊を見送り」と伝えに回って来ると、その時点ですぐに片付けて駆け付けます。兵舎から戦隊指揮所までの坂道を「間に合うといいが」と思いながら、素足にげた履きで一生懸命に走ったものです。

 見送りをする日はちょくちょくありました。桜の枝を手に見送るこの写真(知覧特攻平和会館で開催中の企画展「女学生が見た戦争」で展示)は、45年4月12日のものです。この日は、次から次に特攻機が飛び立っていったので覚えています。

 見送った生徒は30人くらい。写っていないけれど、私もこの中にいました。このころはもう八重桜で、同級生が一抱えほど持って来ていてそれを振って見送りました。

 機体の下には250キロ爆弾。左手で操縦して右手で女学生に敬礼しているでしょう。2、3時間後には死を迎える人なのにとても穏やかな顔でした。頭のいい、立派な人たちでした。残念ですよ。何でこんな悲惨な時代に生まれたのだろうと、今でも思います。

 私は特攻隊員と直接話をする機会はなかったのですが、お世話をした人に聞くと「普通だったよ。めそめそすることもなく、何も文句も言わずに平静にしていたよ」と言っていました。

 彼らは、僕たちが行かないと日本を守れない、そう信じていたのだと思います。私たちもこの頃は戦争に負けることは全然思っていなかった。でも、見送る時は体がガタガタ震えていました。

 その後、飛行場への空襲が激しくなり、私たちの奉仕は4月18日で終わりました。3週間あまりでしたが、とても尊い経験でした。特攻隊の人たちはかわいそうだったけれど、この人たちがいたからこそ今の平和がある。私たちは感謝するしかないと思います。

 実は戦争のことは話したくありませんでした。悲しくなるから、思い出したくも、考えたくもなかった。しかし、世界を見ると、今でも戦争で何の罪もない人が死んでいく。何とか止められないものかと思います。

 特攻隊の人たちは何も悪いことはしていないのに、なぜ死にに行かなければならなかったのか。戦争がどんなにつらく悲しいものか。私が経験したことを今の世代に伝えなければならないと考え、生きている限り語ろうと思っています。

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