取り壊す予定から一転…沼津市の高尾山古墳が念願の国史跡に“内定” 3世紀中頃に築造で東日本最大級【静岡発】

国の文化審議会は2024年6月24日、分科会での審議・議決を経て、静岡県沼津市にある高尾山古墳について国の史跡に指定するよう文部科学大臣に答申した。東日本では最古級で、さらに最大級の古墳と考えられている。

古墳の築造時期はなんと…

国の史跡に指定される見通しとなったのが沼津市東熊堂にある高尾山古墳だ。

発掘されたのは今から遡ること19年。

慢性的な渋滞の解消に向け、国道246号と国道1号を結ぶ都市計画道路・沼津南一色線の工事を市が進める中、建設予定地で行われた試掘調査によってその存在が明らかとなった。

全長62.2メートルの前方後方墳で、後方部分には長辺3.4メートル・短辺1.2メートルの墓坑(遺体を埋葬するために掘った穴)が構築されていたほか、木棺も確認。

さらに、埋葬者が高い経済力と権力を有していたことを示すかのように、副葬品には青銅鏡や鉄槍、鉄鏃(鉄製のやじり)、勾玉などがあり、墳頂部や周溝からは地元の物だけでなく、北陸系や近江系、関東系といった外来系の土器が見つかった。

そして、これらを調べたところ、築造時期は「西暦250年頃かその少し前」と推定されている。

東日本における古墳の“走り”

考古学上、古墳は邪馬台国を治めた卑弥呼の墓との説もある日本列島で最初の巨大前方後円墳・箸墓古墳(奈良県桜井市)が位置する纏向(まきむく)の地を発信源として各地に広まったと考えられていて、その時期は西暦250年頃と言われる。

つまり、高尾山古墳は箸墓古墳と同時期に築造された古墳であると同時に、弘法山古墳(長野県松本市)や高部30号墳・32号墳(千葉県木更津市)と並んで古墳時代の前期初頭に東日本で築造された古墳ということになる。

このため、豊富な副葬品や外来系の土器は広域に及ぶ他地域との交流を示し、古墳文化の東日本への広がりやヤマト政権成立期における政治的・社会的情勢を知る上で重要との評価を得ている。

沼津市では2022年12月、国の史跡指定を目指して文化庁に意見具申書を提出していて、それだけに今回の答申は待ちに待った吉報だ。今後は保存活用計画や整備基本計画を策定した上で史跡公園の整備に着手する方針となっている。

取り壊しから一転…道路との両立へ

一方、この高尾山古墳が取り壊しの危機に瀕していたことは沼津市民以外で知る人は多くないだろう。

前出の通り、高尾山古墳は道路の建設予定地に位置していた。こうした中、沼津市は発見から10年後の2015年5月、従来の計画通り「古墳を取り壊して道路を建設するため、年度内に古墳を削る発掘調査を再開したい」との意向を固める。

しかし、これに待ったをかけたのが日本考古学協会だ。「古墳文化の形成を解明する上で極めて重要」として事業の見直しと保存を求める声明を出すと、翌6月には3つの市民グループが発足し、「高尾山古墳を何としても市民が守り、存続させなければいけない。それが沼津市民の全国の国民に対する責任」と市議会に取り壊しを止めるよう要望。

また、当時の川勝平太 知事までもが「なぜ今のように破壊する、保存するという二者択一になっているのか不思議で、全部を破壊するという考えを私は持っていない」との見解を示す。

これには沼津市も再考を余儀なくされ、都市計画の専門家による協議会などを開催し、最終的には古墳を壊すことなく残した上で、建設を計画する4車線道路の内、東側2車線を橋梁に、西側2車線をトンネルにする案を新たな整備方針とした。

高尾山古墳は今後、官報での告示を経て、正式に静岡県内で45件目の国指定史跡となる。

当時は市議会議員として、古墳発見の経緯や2015年の“存廃騒動”を見てきた沼津市の頼重秀一 市長は「高尾山古墳は本市にとって歴史的に貴重な財産であったが、国の文化財として指定されることによって、学術的に価値のある重要な古墳であることが改めて認識されたものと感じている。今後も高尾山古墳をはじめとした本市の歴史文化遺産をさらに活用して、“誇り高いぬまづ”を実現できるよう市政運営に努める」とコメントしている。

(テレビ静岡)

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