向陽寮の足跡 戦争孤児の居場所・2 【寮長】みんなの「お母さん」

寮の子どもと談笑する餅田寮長(右)(光と緑の園 向陽寮提供)

 「肝っ玉が大きい、何事に対しても尻込みしない人だった」。向陽寮の初代寮長、餅田千代の長男健(たけし)(86)は亡き母をこう評する。
 寮の建設を県に指示した連合国軍総司令部(GHQ)は、寮長を選ぶ際の条件を二つ挙げた。「教職員の経験がない」「子どもたちと寝食を共にできる独身女性」-。餅田はこの条件に当てはまり、仕事の関係で米国で3年ほど暮らした経験も加味され、選ばれた。
 開設当初、大半の職員は住み込みで働いた。寮に求められたのは、親を失った子どもたちの家族の役目。「先生」の呼称は使わず、寮長は「お母さん」、他の職員は「おじさん」「姉さん」などと呼ばせた。
 この「お母さん」の響きに救われた子もいる。8歳で入寮した銭田常雄(81)=高知県香南市=は、原爆に命脈を絶たれた実の母親の顔を覚えていない。「お母さん」と呼ぶことで「本当のおふくろだと思わせてくれた。呼び方が『先生』だったら違ったと思う」
 15歳で入寮した富永政弘(79)=西彼長与町=もまた原爆に遭い、亡くなった実母の記憶は薄く、「お母さん」が「心のよりどころ」だった。退寮後も縁は切れず、結婚式には餅田が母として出席。定期的に連絡を取っていたといい、妻の君代(70)は「この人はマザコン」とからかう。
 中学2年だった健にとって、餅田が寮長を引き受けることは母親が寮生全員の「お母さん」になることを意味していた。自分の子であっても特別扱いせず、寮生の一人として育てる道を選んだ母。健は子どもながらに覚悟をくみ取った。
 健は寂しがるよりも、寮生活がうまく回るように率先して動いた。学校が終われば急いで寮に戻り、寮生と一緒に遊んだり、職員の手伝いをしたり。学校の帰り道で親友と遊ぶ、そんな「普通」の中学校生活に憧れもしたが、寮の仲間との毎日は刺激的で楽しかったと笑う。
 母の一生を振り返り「たくさんの“子ども”に恵まれ、慕われ、幸せだったでしょう」。寮長を退いた後も保護司などを務め、子どもたちと関わり続けた餅田。1991年、息を引き取った日付はくしくも5月5日の「こどもの日」だった。
(文中敬称略)

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