柔道 坂上洋子(現姓石角) 次世代につないだ「銅」 「死んでも離すもんか」 【連載】日の丸を背負って 長崎のオリンピアン

東京五輪柔道男子81キロ級の永瀬(旭化成)は養心会、筑波大の後輩。「最後の最後まで諦めずに備えて、いい状態で臨んでほしい」と語る坂上(現姓石角)=神戸市内

 バルセロナ五輪で女子柔道が正式採用された1992年。当時、日本の競技力はヨーロッパから10年遅れていると言われていた。特に重量級は世界でメダルを取ったことがない。「ここで勝たないと、後につながらない」。72キロ超級の坂上洋子(現姓石角)は、その一心で準備を重ねて本番に臨んだ。準決勝で敗れたものの、3位決定戦は身長180センチ超、体重135キロのマクシモフ(ポーランド)を抑え込んで一本勝ち。銅メダルを決めると、感極まって両手で顔を覆った。

■悔しさを力に
 西北小1年のころ、兄を追って長崎市の少年クラブ「養心会」に入った。楽しくて夢中になったのに加え、男の子が練習相手だったのも成長を促した。岩屋中3年時に全日本女子体重別選手権66キロ超級で3位になると、長崎西高2年で72キロ超級を制して日本のトップ争いに名乗りを上げた。
 高校まで楽しかった柔道は、筑波大進学後は日の丸を背負う競技者としての柔道になった。当時の重量級は日本の中で「弱い階級」。「メダルが望めないから、五輪に派遣しなくていい」とまで言われていた。それがすごく悔しくて「絶対にメダルを取ってやる」と誓って練習に励んだ。後輩たちにいい道筋をつくるためにも必死になった。
 身長163センチ。体重を約90キロまで増やしても、海外勢との体格差は大きい。組み手や間合いなどをかなり研究した。結果、仲間たちの協力もあり、五輪1年前の福岡国際無差別級で3位入賞。周囲の評価を変えた。続く代表選考の全日本体重別を制し、23歳で五輪切符をつかんだ。
 やっとの思いで立った大舞台。3位決定戦に回ったが、気持ちは切れなかった。「勝って終わりたい」。分が悪かったマクシモフを相手に寝技へ持ち込み「死んでも離すもんか」と食らいついた。振り返ると、よく勝てたなと自分でも驚く。「きっと神様がついていたんじゃないかな」
 現在の日本女子柔道界は大きく飛躍を遂げた。自分たちが道をつくらなくても、彼女たちなら打開しただろう。ただ、重量級の後輩がテレビでこう言ってくれた。「先輩たちがつくってくれた歴史を自分たちがつくります」。頼もしく、うれしかった。

■初心を忘れず
 今でもサインを求められたときは、こう書いている。「初心」。ずっと大事にしている言葉だ。養心会時代は柔道を楽しむのが一番だった。勝つための柔道ではなくても、チームは強かった。「好きで柔道を始めて、楽しくて夢中になったんだった…」。五輪の2年前、試合に勝てない時期があったときも、原点に戻ってスランプを克服した。長崎で学んだ「初心」は絶対に忘れない。
 結婚して兵庫県に移り住んで20年以上。現在は兵庫県柔道連盟の事務局長など裏方の仕事をしながら、道着にも袖を通している。「少しでも多くの人が柔道を楽しみ、好きになってほしい」。たくさんのつながりをくれて、かけがえのない経験をさせてもらった柔道へ。「生涯現役」として恩返しをしていく。
=敬称略=

 【略歴】さかうえ・ようこ(現姓いしかど) 長崎市出身。岩屋中2年から全日本女子体重別選手権に出場。72キロ超級で長崎西高2年時を皮切りに5回優勝した。筑波大を経て山形県教委時代の1992年にフランス国際2位、バルセロナ五輪で銅メダルを獲得。翌年から2年間、テレビ長崎に所属して競技を続けた。96年の結婚を機に兵庫県へ在住。兵庫県柔道連盟事務局長、全日本柔道連盟女子柔道振興委員会委員などを務める。52歳。

バルセロナ五輪の柔道女子72キロ超級3位決定戦でマクシモフ(左)から崩れ上四方固めで一本を奪い、感極まる坂上=ブラウグラナ体育館

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