卓球 宮﨑義仁 競技初採用、代表第1号 「4年早ければメダル候補だった」 【連載】日の丸を背負って 長崎のオリンピアン

五輪を「大きな広告の舞台となる国民的行事」と表現する宮﨑=東京都内

 卓球が初めて五輪競技に採用された1988年ソウル。宮﨑義仁は卓球の日本代表第1号となった。2004年アテネからは3大会連続で監督を務めた。日本卓球界をけん引してきた61歳は今、五輪を目指す選手に「自分の人生がかかっている。本当に悔いのないように一日一日を過ごしてほしい」と願っている。

■人生切り開く
 小学時代は伊王島で過ごした。初めてラケットを握ったのは淵中1年の休み時間、同級生が遊んでいる姿を見てから。チームメートには現在の鎮西学院高校長、川﨑健がいた。彼の日本一を目指して努力をする姿勢に刺激を受け、一緒に必死で練習した。その様子を見た川﨑の母で、当時の同校卓球部顧問だった奈賀子から「特待生」として誘われた。「人生が卓球で切り開かれた」瞬間だった。
 5人きょうだいの末っ子。家計に余裕はなく、高校進学は考えていなかっただけに、うれしかった。高校でも努力を惜しまず、3年時にチーム初のインターハイ出場に貢献。大学、実業団にも入れた。「恩師にいい報告をするため頑張ってきた。一生を通して恩を返す思いがある」
 和歌山相互銀行時代に独自のアップダウンサービスを生み出し、1985年の世界選手権団体金メダリストの中国選手や当時欧州最強の選手らを破り8強入り。29歳でソウル五輪に出場した。初めての五輪は「ふわふわした気持ち」。個人シングルスとダブルスに臨んだが、どちらも予選リーグで敗退した。「あと4年早ければメダル候補だった」

■小学生を育成
 現役引退後は「日本の卓球界を強くしたい」という思いがより強くなった。転機は2001年4月、大阪で開かれた世界選手権。日本男子は過去最低の成績に終わった。その夜、仲間で集まって議論した。「小学生から立て直しが必要」という結論になり、中心になるのは「おまえしかいない」と言われた。翌日、銀行に辞表を出した。和歌山で卓球ショップを開いた。
 程なく、男子日本代表監督のオファーがあった。「小学生のナショナルチーム創設」「強化本部規定の改定」「ナショナルトレーニングセンター建設検討委員会の設立」の三つを条件に、無給で引き受けた。
 初めて監督として出た04年アテネは「ベテランとお別れする大会」と位置付けた。08年北京、12年ロンドンは育ってきた若手を中心に臨み、メダルに届きそうな位置まで底上げできた。「日本は確実に強くなっている。4年後のリオでは必ず取る」。そう確信して監督を退いた。
 15年からはJOCエリートアカデミーの卓球総監督として立て直しに携わった。遠征費や中国からの優秀なコーチ招聘(しょうへい)など、課題を半年でクリア。平野美宇や張本智和ら逸材をサポートしてきた。
 現在は日本卓球協会の強化本部長を務める。「東京五輪は出る種目全部メダルを取りたい。男女シングルスと混合ダブルスは金のチャンスがある」。悲願達成のために、選手が望む環境は惜しみなく準備していくつもりだ。=敬称略=

 【略歴】みやざき・よしひと 長崎市出身。淵中から卓球を始め、鎮西学院高、近大、和歌山相互銀行へ進んだ。1985年世界選手権男子シングルス8強、86、87年ワールドカップ2大会連続8強。90年にナショナルチーム設立に尽力し、2001年に男子日本代表監督に就任。前JOCエリートアカデミー総監督。現在は日本卓球協会常務理事、強化本部長、Tリーグ理事長補佐を務める。61歳。

ソウル五輪卓球男子シングルス予選リーグで1勝目を飾った宮﨑=ソウル大体育館

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