あれから10年、抱え続けた「二つの悔い」 娘たちの笑顔支えに歩む 福島・浪江出身の看護師

自宅跡付近で、長女寿奈さん(右)と次女詩乃ちゃん(手前)を抱き寄せる鈴木春奈さん=2月、福島県浪江町請戸地区

 「じいちゃんたち、みんな来たって喜ぶねー」。明るい光が差す福島県浪江町請戸地区。あたりを覆う雑草が、海辺の強い風に吹かれていた。幼い娘2人を連れて訪れた自宅跡は、基礎も残っていない。ここで暮らしていた看護師の鈴木春奈(すずき・はるな)さん(37)は「二つの悔い」を抱えて、この10年を生きてきた。東日本大震災の津波から夫の祖父母を救えなかったこと。勤務していた双葉病院の力になれなかったこと。「この悔いは、一生消えないと思います」。けれど、その後に生まれた娘たちの笑顔を支えに、日々を歩んでいる。(共同通信=坂野一郎)

 ▽「請戸はもうだめだから」

 2011年3月11日午後2時46分。浪江町請戸地区の自宅で激しい揺れに襲われた。その日は夜勤で、そろそろ準備をしようとしていたところだった。ずっとふるいにかけられているような、長い揺れ。おかしい、と思った。

 津波が来るかもしれない。祖母頼子(よりこ)さん=当時(77)=を車に乗せ、自宅から少し離れた農機具小屋にいた祖父長寿(ちょうじゅ)さん=同(78)=と引き合わせた。「私夜勤だから一緒に逃げようか」と祖父に聞くと、「いいから夜勤に行け」と言われ、「逃げてね」と返した。いったん同じ病院に勤める母と落ち合おうと、車で町中心部にある実家へ向かった。

津波で壊滅的な被害を受けた福島県浪江町の請戸地区=2011年3月12日(福島県消防防災航空隊提供)

 東京電力福島第1原発から4・5キロ、大熊町にある双葉病院に携帯から電話をかけたがつながらない。公衆電話からもかけてみたが、やはりつながらない。テレビには、宮城県名取市の津波の様子や、気仙沼市の大火事が映っていた。請戸の映像はまったく流れなかった。外は暗くなり、道が割れているとも聞いた。請戸の方を見ると、暗かった。朝に状況が分かってから、行こう。高台にある夫の勤務先の駐車場にとどまり、車の中で朝を待った。

 翌日の早朝、町の役場で偶然、義父母と会った。海側の様子を見てきたという。「請戸はもうだめだから」と言った。病院に向かおうとすると、街中には白い防護服を着た人たちが歩いていた。「原発がやばいらしい」とは聞いたが、何が起きているのか分からないまま、ほどなくして浪江は全町避難を強いられた。病院には、行けなかった。

 1週間後、原発事故で病院は避難を余儀なくされ、混乱の中で大勢の患者が亡くなったことを知った。

 2カ月後、祖父の遺体が確認された。4カ月後、祖母の遺体が確認された。「どんな服だった?」。最後に2人に会ったのは自分だから、祖父母を探す間、家族に何度も尋ねられ、苦しかった。大変な時に病院にいられず、大切な人も自分のせいで死なせてしまった。「私、何もできなかった」

 ▽後悔と救い

 津波があんなにひどいと分かっていたら。無理にでも連れて行った。でも当時は何も分からなかった。あんな津波が来ることも原発が事故を起こすことも、知らなかった。

 看護師の仕事を辞め、いろんな人への申し訳なさを抱えたままの12年夏。避難先の福島県いわき市で長女が生まれた。不思議な感覚だった。「行け」と言われていなかったら死んでいた、祖父に助けてもらった、という思いが、震災から時間がたつに連れて強くなっていた。救われた私が、命をつなぐ。妊娠が分かったときに、祖父から一字をもらうことは決めていた。長女には「寿奈(じゅな)」と名付けた。避難先ですることがなく、震災のことをずっと考えてしまっていた自分にとって、子育ては苦しさを和らげた。

次女詩乃ちゃんを抱き、自宅跡付近を訪れた鈴木春奈さん。右は長女寿奈さん=2月、福島県浪江町請戸地区

 それでも、自責の念はずっとあった。長寿さんと頼子さんの次女に当たるおばとは、ちゃんと震災のときの話ができていなかった。いつか謝らなきゃ、謝らなきゃいけない、と考えながら迎えた13年冬。倉庫の建前で、南相馬市に再建した自宅におばが来てくれたときのこと。お弁当をつつきながら、2人きりになった。ここで話そう、と切り出した。

 「私がちゃんと避難させていれば。私のせいで」。自分が祖父母を死なせたから、絶対恨まれていると思っていた。おばは「そんなに責めなくていいよ。じいちゃん、ばあちゃん、あんたが嫁に来てくれて喜んでた」と返した。その言葉でようやく少し、救われた気がした。

 ▽笑顔が続きますように

 「今は寿奈と過ごせる時間を大切にしよう」と思えるようにもなった。16年に次女詩乃(しの)ちゃん(5)が生まれ、翌年には障害者施設の看護師として復職。少しずつ日常が戻って来た。浪江から南相馬に避難したママ友と話す会話の内容にも変化があった。子どもの食事や内部被ばくなど放射能に関する話題が少なくなり、たわいもない話題も増えた。「夫がなぜか980円の高いイチゴを買ってくる」「夕飯の前にお菓子を食べさせちゃう」「いまだにテープ型のオムツを選んでくる」。みんなが話すありふれた会話で、笑えるようになった。夫と2人の娘と暮らす平穏な日々がある。

 浪江は2017年に一部が避難指示解除となったが、町によると、今年1月時点の居住人口は1579人で、震災前の1割に満たない。町には更地や空き家が目立ち、よく行ったショッピングセンター「サンプラザ」も解体された。町の風景は大きく変わったが、子どもたちを浪江によく連れて行くようにしている。「私たちが生まれ育った場所を見せてあげたいんです。昔から浪江が好きなので」と春奈さんは笑う。

大漁や豊作を願う「安波祭」で、郷土芸能「請戸の田植踊」を披露する鈴木寿奈さん =2020年2月、福島県浪江町請戸地区の苕野神社

 長寿さんも、浪江が好きな人だった。毎年2月に自宅近くの苕野(くさの)神社で開かれる大漁や豊作を願う「安波祭」の日は、早朝からそわそわして意味も無く自宅と神社を行ったり来たりしていた。18年、震災後初めて神社で行われた「安波祭」に5歳だった寿奈さんを連れて行くと、そこで奉納される郷土芸能「請戸の田植踊」に興味を持ち、踊り手を始めた。「着物がかわいかったから」らしい。19年から、鮮やかな衣装に身を包み、津波で社殿が流失した神社の境内で踊りを披露している。「おじいちゃんが生きてたら『うちのひ孫が踊ってんだ』って近所に触れ回ったと思うんですけど」

 2月23日、娘2人と訪れた請戸。晴れていた。海辺の強い風は、変わらなかった。雑草の中にできた道を歩くと、自宅跡がある。「ここにね、おうちがあったんだよ」。寿奈さんは一緒に辺りを眺め、詩乃ちゃんは目に入った砂で少しぐずっていた。風から守るように、春奈さんが2人を抱き寄せると、詩乃ちゃんが少し笑った。よく笑うこの子たちに救われてきた。過去は変えられないが、いつも願っている。

 どうか、この笑顔が絶えない未来でありますように。

自宅跡付近を訪れた(右から)鈴木春奈さん、次女詩乃ちゃん、長女寿奈さん=2月、福島県浪江町請戸地区

© 一般社団法人共同通信社