「長崎開港の日」はいつ? 昭和初期 記念日制定巡り歴史家論争

1930年に初めて開かれた開港記念日の式典の様子(長崎歴史文化博物館収蔵「第一回長崎開港記念會記録」から)

 「開港記念日」はポルトガル船入港の日ではない!?-。
 長崎市は今年、1571年の開港から450年を迎えた。ポルトガルの貿易船が長崎の港に初めて入り、長崎のまちが造られたとされる原点の年。しかし、「開港記念日」として定められている4月27日は、実は開港したまさにその日というわけではないという。昭和初期に歴史家らの論争の末に決まった経緯を調べた。
 「昭和二年の春、長崎商工會議所は海の長崎を記念し、そして港によつて生きて來た長崎市民の古きを訪ね、併せて將來(しょうらい)を祝福する爲(ため)に、開港記念日を定めようとした」
 長崎商工会議所の「第一回長崎開港記念會記録」には、1930年4月27日に同市の諏訪神社中庭で盛大に開かれた記念式典の状況や、開港記念日決定までの紆余(うよ)曲折が記されている。
 同商議所は27年、記念日制定のために、長崎の歴史に詳しい古賀十二郎、福田忠昭、武藤長蔵、永山時英の4人に検討を依頼した。
 長崎学研究所の赤瀬浩所長は「当時は大恐慌の時代。貿易港としての全国的な存在感も薄れていくなかで、歴史ある長崎港を価値あるものとして市民に認識させ、明るい将来を描きたかったのだろう」と指摘する。ただし、これから決めようとする「開港記念日」の「正解」がないことは、古賀らにとっては周知の事実だったという。
 1570年、戦国大名・大村純忠は長崎をポルトガルとの新たな貿易港とする協定をイエズス会と交わし、翌71年にポルトガル船が入港、大村氏による町造りが始まった。しかし、船の入港記録や協約で定めた入港日といった記念日の根拠となるようなものはない。約3年後に全員の意見が出そろったが、議論が巻き起こるのは必至だった。
 古賀は70年に長崎人が深堀勢を撃退したとされる「3月16日」、永山は88年に豊臣秀吉が長崎を天領とし、名代として後の佐賀藩主・鍋島直茂を代官に任じた「4月2日」(陽暦4月27日)を主張。福田と武藤はおおむね71年に長崎で最初の町建てが行われたとされる「3月」(陽暦4月でも可)を提案した。いずれも長崎の“誕生日”と言えるような歴史的出来事にちなんで考えられていた。
 同商議所は1930年3月、第1回協議会を開き、4人が考えを述べ合った。
 古賀は自説について「(深堀勢との)戦勝をエポックとして、今日の長崎が建設された。当時、県庁の下は地理的に非常に不便であったのだが、長崎人はこの困難と戦い、不便を忍んで開拓した。長崎創業の苦心が偲(しの)ばれる」と語っている。これに対し、他3人からは戦勝日を記念日にすることの是非を問う声が上がった。
 一方、秀吉が長崎を天領とした日を推す永山に対して、古賀は「あまりに内国的。長崎は国際的に考えなければならない」と批判。永山は「秀吉がいなかったら今日の長崎は誕生しなかったと思う。僕の説以外はどれも日付が不明」などと主張した。
 結局、この日は意見が一致せず、市と商議所は約1カ後に再び協議会を開催。そこで開港の年を1571年に、月日を陽暦4月27日に決定した。同會記録には「これは長崎町割及び葡萄牙(ポルトガル)定期船入津の年を記念し、月日は色々の都合からさう定めたのであつた」と記されている。「天下に長崎が位置付けられためでたい日」(赤瀬所長)を推した永山の説が採用された形となった。
 開港記念日が決まると、間もなく商議所や県、市などは長崎開港記年会を設置。短期間で準備を整え、4月27日に「開港記念式」を開いた。式典のほか各所で貿易品の展覧会や講演会など多彩なイベントが企画され、市内は祝福ムードで盛り上がった。
 赤瀬所長は「同會記録を読むと、歴史家の先生方の考え方も分かり面白い。不況のどん底で記念日が制定された当時と同じように、今長崎はコロナなどでピンチでもある。長崎の港や良さにもう一度目を向け、これからの長崎について考える日にしたい」と話している。

開港記念日を祝い市内各所で開かれた記念行事(「第一回長崎開港記念會記録」から)

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