亡き父の足跡 カメラで追う 自分の立ち位置分からなくなる… それぞれに今がある 6.3大火砕流30年

報道関係者らが犠牲になった「定点」で手を合わせる矢内さん=島原市北上木場町

 43人の死者・行方不明者を出した1991年6月3日の雲仙・普賢岳大火砕流惨事から間もなく30年。別れも告げず突然逝ってしまった大切な家族への思いは、時が過ぎても変わることはない。東京在住の会社員でカメラマンでもある矢内美春さん(31)は、NHK報道カメラマンだった父の万喜男さん=当時(31)=を亡くした。美春さんは15日、万喜男さんの最期の取材現場となった島原市で亡き父に思いをはせた。
 当時1歳。父との思い出はなく、20歳を機にカメラを手に「父を知る旅」をスタートさせた。それから約10年。亡くなった父と同じ年齢になった今年、撮りためた作品の一部を紹介する写真展を15日から雲仙岳災害記念館(同市平成町)で開くことを決めた。
 万喜男さんは1982年、NHKに入局。報道カメラマンとしてNHKスペシャル「北極圏」「熱帯雨林」など数々の映像作品を残したほか、湾岸戦争では解放直後のクウェートに入り、衝撃的な映像を全世界に伝えた。88年、真由美さんと結婚。90年3月に美春さんを授かった。
 島原には91年6月1日から約1週間の予定で入り、3日午後4時8分、消防団員の詰め所だった北上木場農業研修所で大火砕流にのみ込まれた。大村市の国立長崎中央病院(現・国立病院機構長崎医療センター)に搬送され、約3週間後の25日、帰らぬ人に。足の指で「ワタシは不死身だ」と記すなど、家族のために懸命に生きようとしていたという。
 「あなた、この日が来たね。そろそろ(墓参りに)行かないとね」-。父の命日が近づくと、母はつぶやいた。遺された母娘にとって、この時期は暑く、苦しく、寂しい季節-。生前の父を知る人や家族、残された写真や記録などから、父の姿を何度となく思い浮かべた。
 深く思い悩んだこともある。当時、過熱していた報道関係者の取材競争に巻き込まれた地元の人たちがいたことを知った。「災害犠牲者の遺族だが、一方で加害者でもあったのではないか。難しい気持ちの30年だった。メディアに対する地元のいろいろな考え方を重く受け止めたい」。罪悪感で胸が押しつぶされそうになり、「自分の立ち位置が分からなくなった」ことも。「島原に行くことは、父を知るための一番の近道」ではあったが、怖くもあった。
 それでも「自分の目で(父の足跡を)どうしても確かめたい」。20歳になった2010年夏、意を決して一人で島原に向かった。地元の人の自宅にお世話になりながら現地を歩き、多くの人たちと災害後の人生について語り合った。「それぞれの考え方や生き方、今があることを知った」
 ちょうどその頃、父が撮影したホームビデオが見つかり、美春さんが1歳の誕生日を迎えるまでの日々が記録されていた。大柄で筋骨隆々の父。「みはるー、こっちだよー」。低くて優しい声に父の深い愛を感じ、涙があふれた。「父はいつでも、そばにいる」。そう感じることができるようになった。
 大火砕流当時の映像が流れるテレビ画面を、父が愛用していたフィルムカメラで撮影したこともある。「父が見ていた同じ光景を、ファインダーを通して見たい」と思ったからだ。「まるで父を追体験しているようだった」。美春さんは今も、遺品のカメラを手に写真を撮り、作品を見つめ、人と語らう。「見えない星を夜空に探すように、いつも、目に映る世界の中に父の姿を探している」
 美春さんの写真展は6月27日(午前9時~午後6時)まで開かれている。


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