写真は語る 雲仙・普賢岳噴火災害<1>「自然と共に暮らす」ということ 元島原市職員 杉本伸一さん(71)=同市南崩山町=

1991年6月3日午後4時過ぎ、島原市の安中地区を襲った大火砕流

 43人の犠牲者を出した1991年6月3日の雲仙・普賢岳大火砕流から間もなく30年。「あの日、あの時…」。約5年半に及んだ噴火災害で、島原半島の人たちは何を考え、いかに行動し、どんな教訓を得たのか。市民5人に、それぞれの場所で捉えた1枚の写真と共に振り返ってもらう。

 長崎県島原市安中地区の公民館に市職員として常駐していた。周辺は宅地造成で急速に人口が増えていた。「災害からどう町を守るか」。6月3日は町内会や老人会、婦人会、消防団の代表が集まって会議を開いていた。
 忘れもしない。当時の町内会長から「いつもと何か違う。西風が山頂から上木場に吹いている。伝えた方がいい」と促された。山は中腹まで雨雲が垂れ込めていた。上木場地区の消防団員に伝えようと、車で向かう途中だった。午後4時過ぎ、受信専用の無線機から男性の甲高い声が響いた。「逃げます!」
 窓の外を見ると、とてつもなく大きい火砕流が頭上に現れた。火の粉が次々に降り掛かってきた。ワイパーを回せど回せど、フロントガラスは視界不良。窓から顔を出しながら公民館に引き返した。そのとき、瞬間的にシャッターを切った。
 安中地区は度重なる火砕流や土石流で千棟以上が焼けたり、流されたりした。約8割の地域住民が避難所生活を強いられ、若い消防団員ら地域を支える柱も失った。日常生活を奪われた被災者と向き合ったが、できる事は限られていた。先が見えず、無力感と絶望感に襲われた。
 「普賢さん」と親しまれた山。噴火は長い地球の営みの一つ。火山活動では被害を及ぼすが、一方で「恵み」ももたらす。噴火が起きた時に私たちはどう行動するか考え、身を守らなければならない。それが「自然(火山)と共に暮らす」ということだ。


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