【加藤伸一連載コラム】高2の夏 県予選でライバルに惜敗も運命が変わった

公式戦では数えるほどしか投げられなかった

【酷道89号~山あり谷ありの野球路~(10)】1982年6月30日、8か月に及ぶ「対外試合禁止」の処分が解除された倉吉北高野球部は、2日後の7月2日から他校との練習試合を再開しました。再出発の場となったのは倉吉工のグラウンド。待ちに待った初戦はたまったうっぷんを晴らすかのように2本塁打を含む15長短打で11―5の快勝でした。

しかし、処分前に「史上最強」と言われていたチームは、夏の県大会を前に不安も露呈していました。練習試合4試合を終えた時点で2勝2敗。しかも本番で最大のライバルとなりそうな鳥取城北には2連敗を喫していました。

結果から先に言うと、82年夏の県大会で、倉吉北は2回戦からの出場ながら2戦目となった準々決勝で鳥取城北に3―8で敗れ、夢にまで見た甲子園への道を絶たれました。しかし、頑張っていれば誰かが見てくれているというのは本当で、この大会では本人もうかがい知らないところで僕の人生が動き始めていました。

夏の大会の会場となったのは、同年7月11日にオープンしたばかりの鳥取市営美保球場。プロの公式戦も行えるという触れ込みで、両翼92メートル、中堅120メートルの立派な球場でした。僕は初戦となった7月26日の倉吉工との2回戦に先発。6回を投げて打者21人を4安打、5奪三振、無四球で無失点に抑え、5―3の勝利に貢献しました。

翌27日の鳥取城北戦はエースナンバーを背負った3年生の藤山英浩さんが先発したのですが、1―0の初回にいきなり2四球と犠打で一死二、三塁のピンチを背負い、暴投で同点。さらに四球で一、三塁とされてから適時打と四球で傷口を広げた場面で、僕にお鉢が回ってきました。

そのまま最後まで投げ切り、7回2/3を8安打、5奪三振、2四球で4失点。逆転勝ちとはなりませんでしたが、持てる力は発揮できました。そんな僕の投球をネット裏からプロのスカウトが見ていてくれたのです。

実は鳥取城北のエースだった小林誠さんが球威のある直球と落差のあるカーブとフォークでプロの注目を集めていて、見ていたら相手校の2年生投手に目が留まった…というところでしょう。投球内容が良かった前日の倉吉工戦も、直前の試合が鳥取城北―鳥取西だったので、たまたま居残っていたスカウトが僕に興味を持ってくれたのかもしれません。

ただ、そんな話を聞かされたのは後になってから。結果的に唯一のチャンスだった甲子園への道を絶たれたショックは相当なものでした。それどころか、僕らが最上級生となる新チームには再び悪夢のような出来事が襲い掛かってきたのです。

☆かとう・しんいち 1965年7月19日生まれ。鳥取県出身。不祥事の絶えなかった倉吉北高から84年にドラフト1位で南海入団。1年目に先発と救援で5勝し、2年目は9勝で球宴出場も。ダイエー初年度の89年に自己最多12勝。ヒジや肩の故障に悩まされ、95年オフに戦力外となり広島移籍。96年は9勝でカムバック賞。8勝した98年オフに若返りのチーム方針で2度目の自由契約に。99年からオリックスでプレーし、2001年オフにFAで近鉄へ。04年限りで現役引退。ソフトバンクの一、二軍投手コーチやフロント業務を経て現在は社会人・九州三菱自動車で投手コーチ。本紙評論家。通算成績は350試合で92勝106敗12セーブ。

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