記憶のバトン、次世代へ 語り部ボランティア・長門亜矢さん(38) 雲仙岳災害復興記念館 雲仙・普賢岳大火砕流から30年 

「バトンを次の世代に渡したい」と力を込める長門さん。後方は平成新山=島原市平成町、雲仙岳災害復興記念館前

 雲仙・普賢岳噴火災害の記憶や教訓を次世代に継承しようと、長崎県島原市平成町の雲仙岳災害復興記念館のスタッフ、長門亜矢さん(38)がこの春、同館の語り部ボランティアに登録した。当時、小学生だった長門さんの自宅は度重なる土石流で流され、親類宅などを転々とした。「噴火災害を語れる最も若い世代。先輩の語り部たちから受け継いだバトンを次の世代に渡したい」と決意を新たにしている。
 43人が犠牲となった1991年6月3日の大火砕流の混乱を目の当たりにした。当時8歳、小学3年だった。学校から同市安中地区の自宅に帰り、一人で姉の帰りを待っているときだった。突然、何台もの消防車と救急車のサイレンが鳴り響いた。「何か起こったのかな」。外に出て普賢岳の方向を見ると、巨大な噴煙で空が真っ黒になっていた。
 両親は封鎖された道路を避けながら、何とか車で迎えに来てくれた。姉も帰宅したが、火砕流で燃える山を見て、泣いていた。逃げる車内で聞いた「ボトッ、ボトッ」という灰まじりの雨の重たい音が忘れられない。
 安中地区はその後、何度も土石流に襲われ、立ち入りが制限された。一時帰宅で自宅に戻る度に、建物の傷みや荒れはひどくなっていった。荷物を取るために戻ったある日、土石や木材と一緒に流されてきたブタの死骸を見つけたとき、「二度と戻れないと瞬間的に悟った。帰宅の希望を失い、悲しかった」と振り返る。
 家族4人で親類宅に身を寄せた後、仮設住宅で1年半ほど暮らした。1棟に2世帯が入る簡易的な建物。「お隣さん」との壁が薄く、テレビや足音に子どもながらに気を使ったことを覚えている。「当たり前の生活が当たり前でなくなる。それが災害」と実感した。
 現在、語り部ボランティアには10人が登録している。その多くが70代前後。高齢化が進む現状に危機感を抱き、当時のことを詳細に語れる先輩ボランティアと、噴火災害を知らない世代をつなぐ「中継ぎ役」として、来館者や小中学校の子どもたちに自らの体験を伝えている。
 長女が、大火砕流当時の自分の年齢と同じ8歳になり、「火砕流って何? 山が崩れたの?」などと質問してくるようになった。「まずは自分が暮らす場所で何があったのだろうと興味を持つこと。それが災害伝承の第一歩」。長女、そして島原の子どもたちを災害から守るという決意を胸に、語り部活動を続けていくつもりだ。

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