エンゼルス番記者のジェフ・フレッチャー氏 5度の転職で夢の専属記者に

エンゼルス番記者のジェフ・フレッチャー氏

【元局アナ青池奈津子のメジャー通信=エンゼルス番記者のジェフ・フレッチャー氏】「野球を見て、記事を書いたらおカネをもらえる仕事があるらしい」

オレンジカウンティー(OC)・レジスター紙のジェフ・フレッチャー記者が、今から約38年前に知った「番記者」と言う天職の存在。

コロナ禍で大リーガーたちへのインタビューがまだできないので、野球に携わる人々に矛先を向けてみようと思い、最初にお願いしたのが日頃エンゼルスの大谷翔平選手の取材で一緒になるジェフだった。

エ軍の番記者歴9年は現在いる記者の中では最長で、控えめで目立つ方ではないが、常に一定の落ち着いた雰囲気を醸し、安心感を与えてくれる存在。不思議なもので、この6年間で最も顔を合わせた一人なのに、意外と何も知らない。

「幼い時は医者になりたいと思ったんだけど、医学部に通ういとこからプロセスの大変さを聞いて、そんなの無理だってすぐ諦めた。その次に知ったのが、番記者の仕事。13歳ぐらいかな。そこから一直線で、まずはジャーナリズムのサマーキャンプに行き、高校の新聞部、大学はオハイオ州立大学でジャーナリズム専攻の学生新聞ライター。新聞社のインターンに申し込みまくって、3社で経験を積ませてもらい、3社目だったロサンゼルス(LA)・タイムズ紙が途中で正式雇用にしてくれたんだ。今は亡き、銀のサターン車で1992年にカリフォルニアに来てから、ずっと西海岸に住んでいるよ」

「OCレジスターではなくて、LAタイムズ?」と思った人もいるかもしれない。

「在職中、大リーグ記者職にひたすら応募し続けていた」というジェフは、LAタイムズで高校スポーツ、マイナーリーグ、カリフォルニア州立大学ノースリッジ校担当記者を経て、97年にサンフランシスコローカル「サンタローザ・デモクラッツ紙」に転職。晴れて大リーグ記者としてのキャリアをスタートしたが、アスレチックスとジャイアンツを両方取材し、遠征には帯同しなかったため、まだ理想的な仕事とは言えなかったという。

「いいスタートではあった。出張に行かないおかげで、息子たちが生まれても時間があったし。番記者の仕事は、年間140日近く家にいないから、幼い子がいるとかなり難しい。そこは幸いだったけど、11年勤めたところで2008年に解雇された」

驚いて聞いていると「この仕事はそういうもの」とジェフ。

「これまで5度転職しているけど、そのうち2回は解雇されているよ。3職目のAOLファンハウスで全国区の野球ライターになれた時は職務も給料も最高だったけど、わずか2年で倒産。実質のクビだよね。そこから雑誌の編集やら全く違う仕事などで間をつないで、12年に今のOCレジスターのエンゼルス番という仕事に就けたんだ。ようやく、夢だった1チーム専属の記者に」

野球の何がそこまでジェフを魅了するのか。

「僕は物事の展開を一つひとつ追っていくのが好き。野球が毎日どんな結果を生むのか、選手のキャリアがどう展開するか、傍観しているのが好き。マイク・トラウトや大谷を初めのころからずっと追えるってクールだと思うし、楽しい。野球シーズンはまるで一冊の本で、162ページを毎日1ページずつ読み進めていく感じ」

担当チームにこだわりを持ったことはない。ただ、同じチームをずっと追い続ける専門家でありたいのだそうだ。

「でもね、番記者になることはお勧めしないよ。各球団にだいたい3~4人、30球団で150人もいない仕事だから狭き門な上に給料もそんなに良くないし。新聞の衰退で自分がキャリアをスタートした時から、ジャーナリストは2割くらいしか残っていない。今の仕事も自分が引退する前に解雇になるだろうなって思っているから」

ジェフは何食わぬ顔で話していたが、少し切ないエンディングだった。

野球に限らず、オンライン化によってこうして記事が世界中に届けられるようになった半面、生き残りがより大変になってきたことは、ジャーナリズム全体が抱える大きな問題。

「できる限り伝え続けたい」

思いはずっと変わらない。

☆ジェフ・フレッチャー 51歳。2012年からオレンジカウンティ・レジスター紙でエンゼルスの番記者を務める。1997年から大リーグで記者としてのキャリアを開始。前職はロサンゼルス・タイムズ紙、サンタローザ・デモクラッツ紙、AOLファンハウス、ディアボロ・カスタム・パブリシング。AP通信が毎年行っているライターコンテストで3年連続賞を受賞するなど、スポーツ界で長く活躍する記者の一人。

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