【追う!マイ・カナガワ】歩行者の心得を探る(下) 日本はもともと左側通行だったらしい

 歩道で高齢男性に「歩行者は右側を歩け」と注意され、「歩道にそんなルールあったの?」ともやもやしていたところ、神奈川新聞社の「追う! マイ・カナガワ」取材班にも、神奈川県平塚市の女性(75)から「歩行者の通行は右側か左側か」という疑問が寄せられた。若い頃に右側通行と習い、2人の息子にそう教えて育てたという女性は、右側を歩く友人が「奥さんが間違っている」と同世代の男性に指摘されたのを機に、2人で思い切って交番で質問してみた。しかし、警察官に「どんな道にも特に決まりはありませんよ」と言われ、迷ってしまったという。

◆刀がぶつからない工夫

 歩行者の通行の変遷には諸説あるようだが、ニッセイ基礎研究所取締役・研究理事の中村亮一さん(62)による論文が詳しかった。

 取材を申し込むと、「日本はもともと左側通行だったと言われている」と自説を披露してくれた。

 「もともと江戸時代は腰に差した刀がぶつからないように。馬も刀が邪魔にならないよう左から乗馬し、すれ違いで刀がぶつからない左側通行がよかった。その後、1872(明治5)年に英国の支援で左側通行の鉄道が導入され、交通の発展に伴い『人も車も左』がルール化されていった」

 「これが変わったのは戦後」と中村さんは言う。「自動車の増加を見据え、GHQ(連合国軍総司令部)の指導で、1949(昭和24)年に歩行者は右側通行に変更された」

 紛らわしいルール変更はここで起こっていた。

 「変更の理由は、車両と歩行者が向かい合って歩くことで、相互を認識しながら通行できて安全性が増す『対面交通』の考え方です。米国はもともと、日本へ輸出の狙いもあったのか、車を本国と同じ右側通行、人は左側通行にしたかった。しかし終戦間もない日本側はインフラ整備が追い付かないと断り、人を右側通行にして決着した」

◆戦後の日米攻防…強引な変更へ

 ここまでの内容で、疑問は解消できたでしょうか。女性に疑問を寄せていただいて半年。記者は仕事の“渋滞”を解消できなくて出稿に時間がかかってしまったが、右側通行となった経緯にはさらに踏み込んだ。

 参考になったのは「道路交通政策史概観」(2002年刊)。1960年の道交法制定にも携わった元警察庁の故・内海倫さんが中心となり、道路交通行政の実務者向けに編集した一冊だ。

 江戸時代にかごや馬などが主流だった道路環境は、明治に入ると関所の廃止や馬車の登場で大きく変わった。事故増加に歯止めをかけるべく、東京で警視庁が左側通行の規則を制定。それが全国的なルールとして示されたのが大正時代だ。

 他府県にまたがる交通が増え、道路取締令で「人も車も左」と規定し、順守の徹底を呼び掛けた。大正から昭和にかけて左側通行は学校でも厳しく指導され、終戦までには国民全体に浸透していったようだ。

 ところが戦後、GHQが米国式の車の右側通行を強く要請してきた。日本側は道路施設やバスの乗降口の変更などに天文学的な支出が必要だとして断ったという。しかし、47年に道路交通取締法(道交法の前身)が制定された後もGHQの要請は執拗(しつよう)に続き、対面交通だけは実施できるよう「人は右」で決着し49年には同法が改正された。

 モータリゼーション(車社会化)が進んでいた米国から対面交通の概念が持ち込まれ、道路交通取締法の制定後わずか2年で加えられたのが次の条文だ。

 道路を通行する歩行者は、右側に、車馬は、左側によらなければならない。

 GHQは右側通行が正しいとして「KEEP RIGHT」と迫ったのかもしれないが、ちょっと強引とも思える改正があったことが尾を引き、今も「右か、左か」と、みんなを惑わせているのかもしれない。

◆取材班から

 戦後の混乱期に、歩行者の通行方法を巡り日米が攻防していたことには驚いた。保険会社の会計・経理などが専門の中村さんも、交通ルールをふと疑問に思ったことをきっかけに調べてみると、「歴史的な背景があって、どんどんと興味を引かれていった」と話す。

 「道路交通政策史概観」の編集に関わり、故・内海さんをよく知る小橋康章さん(70)にも話を聞けた。「父が内海さんと親しくしていた」といい、「人生の師」でもあった内海さんは「温故知新」という言葉を大切に、道路を考える上で必要な資料を残したいと願っていたという。そのおかげで記者も“激道”の時代をひもとくことができた。

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