【加藤伸一連載コラム】一時的な措置ながら任意引退選手に

杉浦監督(右)からバトンを受け、90年から指揮を執った田淵監督

【酷道89号~山あり谷ありの野球路~(27)】プロ野球には夢があります。今ならレギュラーとして3年連続で好成績を残せば年俸1億円に到達することも珍しくありません。しかし、一つのケガでどん底に突き落とされるのもプロ野球。入団7年目、前年に自己最多の12勝を挙げた1990年の僕が、まさにそうでした。

年俸も3000万円の大台を超え、こんなことがないように細心の注意を払っていました。オーバーホールでも、前年に最優秀救援投手としてタイトルホルダーになった井上祐二さんの地元、宮崎県日南市で山内和宏さんと3人で行った年明けの自主トレでも、僕に落ち度があったとは思えません。ただ、遠投をした際、右肩に違和感を覚えたことだけは気になっていました。

悲劇が襲ったのはキャンプ2日目のことです。初日に100球ほど軽めに投げてみたのですが、一夜明けたら右肩が重くなっていて、張りもありました。しばらく別メニュー調整で様子を見たものの症状は変わらず、キャンプ中盤に二軍行き。2月下旬にはブルペンでの投球練習を再開しましたが、捕手を座らせるには至りませんでした。

一足先にキャンプ地の沖縄を離れ、福岡のチームドクターに診察してもらった結果は「右肩関節周囲炎」。田淵幸一監督から就任早々に告げられていた初の「開幕投手」は白紙となりました。

一体、何がいけなかったのか。プロ3年目に酷使が原因で右ヒジを痛めた経験から、オフに肩を休ませ過ぎたのが悪かったのか。はたまた始動が遅かったのか。オフのメディア出演や“お座敷”はすべて断るべきだったのか。そんな自問自答の日々が続きました。

5月になっても状況は変わらず、50~60%の力で投げるのが精一杯。6月は二軍戦2試合に登板しましたが、計4イニングを投げただけ。右肩をかばっているうちに右ヒジにも痛みが走るようになり、プロで初めて一軍登板なしでシーズンを終えたばかりか、7月には一時的な措置ながら任意引退選手扱いになりました。

90年のダイエーは、前年秋のドラフト会議で1位指名した上宮高の元木大介に入団拒否されたところからケチがつき、大砲と期待された助っ人のバナザードとアップショーがシーズン中に退団。前年12勝で開幕投手に指名されていた僕の長期離脱も田淵監督にとっては大きな誤算だったはずです。

130試合を戦って41勝85敗4分け。勝率3割2分5厘は今も2リーグ制以降の球団ワースト記録で、優勝した西武とは40ゲーム差、5位のロッテとも15ゲーム差の最下位に終わりました。不可抗力とはいえ、大きな期待をかけてくださっていた田淵さんには今でも申し訳なく思っています。

☆かとう・しんいち 1965年7月19日生まれ。鳥取県出身。不祥事の絶えなかった倉吉北高から84年にドラフト1位で南海入団。1年目に先発と救援で5勝し、2年目は9勝で球宴出場も。ダイエー初年度の89年に自己最多12勝。ヒジや肩の故障に悩まされ、95年オフに戦力外となり広島移籍。96年は9勝でカムバック賞。8勝した98年オフに若返りのチーム方針で2度目の自由契約に。99年からオリックスでプレーし、2001年オフにFAで近鉄へ。04年限りで現役引退。ソフトバンクの一、二軍投手コーチやフロント業務を経て現在は社会人・九州三菱自動車で投手コーチ。本紙評論家。通算成績は350試合で92勝106敗12セーブ。

© 株式会社東京スポーツ新聞社