高度成長期の象徴 昭和の「長崎遊園地」 胸躍らせたワンダーランド

多くの来園者でにぎわう長崎遊園地(1990年5月5日)

 昭和生まれの中年世代をノスタルジックにさせるものの一つに「遊園地」がある、と思う。テーマパーク隆盛の今、昔ながらの遊園地は絶滅の危機にひんしている。若い人は知らないかもしれないが、長崎市にもかつて「長崎遊園地」があった。現在のテーマパークに比べれば随分見劣りするが、あの頃の子どもたちにとってそこは胸躍らせるワンダーランドだったのだ。
 長崎遊園地は現在の長崎市大浜町(旧西彼福田村)にあり、通称「福田の遊園地」と呼ばれた。今はマンションが建ち、名残を感じさせるものはない。
 さすがに「時効」だと思うので告白するが、高校時代、友達と連れだって、よく夜中に遊園地に忍び込んだ。金網に空いた穴から容易に侵入できた。今ほどセキュリティーが厳重ではない時代。昭和は概しておおらかだった。
 長崎自動車や「長崎県大百科事典」によると、同遊園地は1957(昭和32)年、三菱の兵器工場建設予定地だった海岸埋め立て地に開園。長崎自動車の関連会社が運営した。
 敷地面積約3万2千平方メートル。観覧車、メリーゴーラウンド、ジェットコースターなど17基の大型遊具を備え、野外ステージやプール、海水浴場もあった。「プールの水は海水やった。体のベタベタになったもんね」とは同級生の弁。
 最盛期には年間204万人が入場したが、娯楽の多様化などにより年々減少。95年に年間6万人を割り込み、96年8月31日に閉園した。当時の長崎新聞は石だたみのコーナーで「約四十年にわたる歴史に静かに幕を下ろした」などと短く伝えただけだった。

 ゆかりのある人を探していて大渡吉徳さん(84)=大浜町=にたどり着いた。施設の目の前で理容店を営み、遊園地の「始まりから終わりまで」を知る人だ。「(開園当初は)入場者がバスでひっきりなしに運ばれてきて、すごいにぎわいやった」と振り返る。
 大渡さんによれば、開園当初、地元住民だけが持てる「木札」(パスポート)があり、無料で入園できた(やがて廃止)。休日になると沖合にチャーター船が泊まり、海からも来園者を運んだ。ボートなどで渡る対岸の通称「猿島」は定番のデートコース。「芸能人のステージもありよった。西城秀樹も来たばい」と懐かしむ。

開園当時の貴重なパネル写真などを手にする大渡さん(右)と松本さん=長崎市大浜町


 83年に東京ディズニーランドが開業し、日本にもテーマパーク時代が到来。県内でも長崎オランダ村(83年)、ハウステンボス(92年)がオープンし、長崎遊園地は次第に時代に取り残されていった。
 テーマパークに詳しい明治大経営学部の中島恵兼任講師によると、50~70年代、鉄道沿線の宅地開発などに伴い、鉄道事業者が運営する遊園地が全国で数多く誕生した。「戦後、焼け野原から復興し、パワフルな経済大国にのし上がっていった日本。遊園地は高度成長期の象徴だ。その盛衰は時代の変遷を映し出している」と語る。
 長崎遊園地の閉園から25年。そのDNAは「みらい長崎ココウォーク」の観覧車に受け継がれた。高校時代、同遊園地でアルバイトをした大浜町自治会の松本律也副会長(62)は言う。「閉園する間際の時期は客が少なくて寂しかったが、長崎遊園地は福田(地区)の誇りでしたし、私にとっての青春でしたね」

 


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