【宝塚記念】歴史に残る“大金星” 伏兵扱いだったナカヤマフェスタの激走を予言していた人物

宝塚記念を制したナカヤマフェスタはこの年の凱旋門賞で2着に入った

【松浪大樹のあの日、あの時、あのレース=2010年宝塚記念】

ナカヤマフェスタを間近で見たのは2009年の5月30日が最初でした。ロジユニヴァースが勝った日本ダービーの前日ですね。とてつもない不良馬場で行われたこの年のダービーの勝ち時計は2分33秒7。2500メートルではなく、2400メートルのレースです(苦笑)。

記録にも記憶にも残る一戦だったんですけど、レースの前日から結構な雨量で。リーチザクラウン(2着でした)を出走させている橋口弘次郎調教師から「雨はどうだい? 結構な具合かい?」なんて感じの電話があって「結構なんてもんじゃありません。窓を叩く雨の音が騒音レベルです」と返答したものです。ええ、すでに東京競馬場に来ていたんですよ。はるばる京都から。朝の6時くらいが一番ひどかったような記憶もありますけど、ロジユニヴァースが到着した7時ごろもまずまずの雨でした。

雨を言い訳するわけではないんですけど、ロジユニヴァースは馬体の張りも毛ヅヤもひと息。アレレと思うくらいの厳しい状況だった皐月賞(14着)から大きく変わったようには見えなかったんですよね。いや、ホントに。険しい表情をしていたはずの僕に「自分の馬も見てくださいよ」と声をかけてきたのがナカヤマフェスタを担当していた堀内助手(現在は調教師になりました)でした。十数年前の僕は冬の小倉に滞在することが通例で、関東の関係者の方と顔見知りになる機会も多かった。堀内さんもその一人だったんですよね。

すでにナカヤマフェスタは馬房の中にいましたから、どんな馬なのかはわかりませんでした(苦笑)。ただ、そんな同馬の前で皐月賞がどれだけ急仕上げだったのか、そこからの上げ幅がどれほど大きいのか、なによりも能力の絶対値の高さについて熱っぽく語る堀内さんの姿に驚かされたんですよ。本人にビッグマウスのイメージはなかったものですから。まあ、小倉に連れて来ていた馬では強気になれなかったのかもしれませんけど。で、そのダービーは追い込みの難しい馬場で4着。結果よりも内容の濃いレースでした。

それから1年と1か月──。宝塚記念に挑むナカヤマフェスタは栗東トレセンにいました。菊花賞(12着)と中日新聞杯(13着)のイメージが悪過ぎたのか、この馬を熱心に取材する記者は少なかったそうですが、休養明けで快勝したメトロポリタンSの内容がやたらと良かった気がして。

あいさつついでに出張馬房に顔を出したのはレース前々日の金曜日だったかな。「いや、ものすごく雰囲気がいいですよ。僕はいい競馬ができると思っています」と当時は助手だった堀内さんは強気でした。

「あの頃(菊花賞から中日新聞杯あたり)は下手に馬をコントロールしようとして…。かみ合ってませんでしたね。能力の問題でなく、走ることを嫌がっていた。で、休養明けからは馬が納得してくれるまで待つようにしたんですけど、その効果がすごく大きくて。それが前走の結果につながったんですよ。あとは能力の問題ですが、僕は通用すると思ってます」。

この馬も忘れちゃいけないステイゴールド産駒。我が強い面があったんでしょうね。まあ、それを聞く前の段階で予想は終わっていましたし(ナカヤマフェスタは〇=対抗評価)、コメントを記事に反映することはできなかったんですが、僕の前任者(関西本紙担当)でもあった杉本博先輩は「アレに印を回せるなんてなあ」と完全にこの時の走りをフロック視されてました。(苦笑)。

2着はブエナビスタで3着アーネストリー、4着がドリームジャーニーという素晴らしいメンバーをねじ伏せての勝利。当時は8番人気(37・8倍)でしたが、単純に強かったと思いますし、さすがに凱旋門賞2着後は「あの馬、ホントに強かったんだなあ」と言ってましたけど。

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