【加藤伸一連載コラム】右肩は「投げて治すしかない」との結論に

斉藤は華麗なフォームでカリスマ性もあった

【酷道89号~山あり谷ありの野球路~(30)】福岡ドーム元年となった1993年、僕が足しげく通っていたのは、新たな本拠地とは博多湾を挟んで対岸に位置する福岡市東区の西戸崎合宿所でした。引退後にもコーチやフロントの一員としてホークスには携わってきましたが、リハビリのためファーム施設に通い詰めた日数では僕と斉藤和巳が歴代トップクラスでしょう。

それはさておき、92年7月の右肩手術から再起を図る中で、もがき苦しんでいた僕は一つの方向性を導き出しました。肩痛の原因を「酷使」ではなく「筋力がないから痛めた」と考え「投げて治すしかない」との結論に至ったのです。

それまでは右肩に負担がかからないよう、ラグビーボールやソフトボールを投げたりもしていましたが、それではプロの投手として硬球を投げる筋力は鍛えられません。ヒジの位置を下げたりしながら“痛みを感じないフォーム”を模索し、ここだと決めたら投げ込んで鍛える。極端な話、痛みを感じることなく投げられるならサイドスローにしてもいいとさえ考えていました。実際にそうしなかったのは、試してみたらサイドスローでは痛みを感じたからです。

言うのは簡単ですが、誰にでもできることではありません。見ようによっては、プロとして“格好悪い”からです。二軍投手コーチに就任した2011年から和巳のリハビリを間近で見るようになって、つくづくそう思いました。

192センチの長身から投げおろす本格派右腕の和巳は03年(20勝3敗)と06年(18勝5敗)に沢村賞にも輝いたカリスマ性のある投手でした。普段は気さくでも人とは違うオーラがあり、本人にもエースの自覚とプライドがあったはずです。だからこそ「モデルチェンジしてみたら」などと軽々しく言うことはできませんでした。彼が目指したのは本格派投手としての完全復活であり、これは和巳クラスの投手でないと分からない境地です。

そういう点で僕は現実主義者なのかもしれません。人から「格好悪い」と言われようと構わない。大事なのは再び一軍のマウンドに立って、いい給料をもらって家族を幸せにすること。91年7月の右肩手術の際に身重の体で献身的な看病をしてくれて、いつでも「何とかなるわよ」と励まし続けてくれた妻や、とっさのときに右手が出て何かあったらいけないとの理由から風呂にも入れてあげられなかった娘のためにも、スタイルにこだわってはいられなかったのです。

復活に向けたトレーニングは移動時の車の中でも欠かしませんでした。運転に支障がないよう気をつけながらチューブを使って右腕のインナーマッスルを鍛えたり、投球時にできたマメを硬くするため、人さし指や中指の先で運転席近くに固定したコンクリート片を叩き続けたり…。そんな地道な努力の成果が形となって表れたのは、手術から2年が経過した94年シーズンでした。

☆かとう・しんいち 1965年7月19日生まれ。鳥取県出身。不祥事の絶えなかった倉吉北高から84年にドラフト1位で南海入団。1年目に先発と救援で5勝し、2年目は9勝で球宴出場も。ダイエー初年度の89年に自己最多12勝。ヒジや肩の故障に悩まされ、95年オフに戦力外となり広島移籍。96年は9勝でカムバック賞。8勝した98年オフに若返りのチーム方針で2度目の自由契約に。99年からオリックスでプレーし、2001年オフにFAで近鉄へ。04年限りで現役引退。ソフトバンクの一、二軍投手コーチやフロント業務を経て現在は社会人・九州三菱自動車で投手コーチ。本紙評論家。通算成績は350試合で92勝106敗12セーブ。

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