【東京五輪】〝名伯楽〟吉村和郎氏が明かす古賀稔彦さん金メダル秘話「誤診がなかったら取れなかった」

吉村和郎氏

東京五輪が間もなく開幕する。新型コロナウイルスへの不安、五輪初の無観客開催、世間で根強い中止を求める声…。選手を取り巻く環境はいつになく厳しい。その中で金メダルが期待される柔道は本番をどう迎えればいいのか。本紙は全日本柔道連盟の元強化委員長の吉村和郎氏(70)を直撃。数々の金メダリストを育てた〝名伯楽〟は1992年のバルセロナ五輪で金メダルを獲得した故古賀稔彦さん(享年53)と吉田秀彦氏(51=パーク24総監督)の2人を引き合いに、代表選手にゲキを飛ばした。

無観客開催という前代未聞の本番に、さすがの吉村氏も「影響する。感覚が変わる」と代表選手に同情する。

「海外選手のように来日して待機しなくていいから地の利はある。ただ、それだと実力を発揮できないから平等じゃないやろ。となると競技の価値がなあ…。世界中でコロナがはやってんのに、なんでやるのかわからんな」

そう首をかしげるが、23日の開幕まで待ったなし。翌24日には早速、男子60キロ級と女子48キロ級が始まる。ここまできたら、選手は試合に集中するしかない。そんな中、まず吉村氏が強調するのが五輪の特殊性だ。

「世界選手権は力が強いやつが勝つ。ただ、五輪はいろいろな要素があるから難しい。例えば世界選手権は柔道ファンしか見ないが、五輪は一般人も見るので重圧が桁違い。(古賀)稔彦ですら試合直前に『怖い』と不安がってたぐらいや」

3月に他界した古賀さんは、1988年ソウル五輪でまさかの3回戦敗退を喫してしまう。平成の三四郎でさえ悩まされた五輪の重圧。だが、この敗北で覚醒したという。

「試合後、こう言うのよ。『今まで自分は先生のロボットでしたけど、試合は自分で考えて自分で動かないと勝てませんね』と。あいつはこれで〝自立〟したわけや。稔彦がガキのころからずーっと一緒だからオレがいれば安心する。ただ、それで勝てるほど五輪は甘くないことに気付いたんだ」

畳に上がれば、自分一人。一本背負いが代名詞の古賀さんだが、これ以降は他の技も習得。だからこそ、一本背負いに磨きがかかり、92年のバルセロナ五輪金メダルにつながっていく。当時、試合直前の吉田氏との練習で大ケガを負っていたため、感動を呼んだのは有名な話だ。

だが、そんな吉田氏もケガを負っていたことはあまり知られていない。同氏も五輪2か月前に左足首を痛めていたのだが、これには驚くべき逸話がある。

「秀彦は実業団の試合に出て痛めたんだけど、医師に見せたら『ねんざ』だという。だったら、何とかなると思ったんやけど、打ち込みをやっても全然力が入らない。1か月以上練習ができないまま、スペインに行ったもんだから、本人は不安で仕方がない。『稔彦先輩とどうしても練習させてください』というのでやらせたら、逆に稔彦をケガさせてしまった」

絶体絶命の大ピンチ。自分の金メダルも心もとないのに、先輩の金メダルまで危うくさせてしまった――。この出来事が吉田氏の何かを変えた。

「それ以降、秀彦の打ち込みがガーン! ガーン!と力が入るようになってね。勝たなきゃいけないと思ったんやろ。結果的に2人とも金メダルを取ったんだけど、ちゃんと調べたら秀彦は実は骨折していた。でもそれがわかっていたら、試合には出させられなかった。あの時医師が『ねんざ』と誤診していなかったら金メダルはなかったわけや。そういう運も持っていた」

まさに何が起こるかわからないのが五輪。ただ、あまり張りつめてもいけないと吉村氏は言う。

「スペインで稔彦と秀彦が1日休みがほしいというから許可したら、なかなか選手村に帰ってこない。ようやく帰ってきたので『お前ら、何やっとったんじゃ!』と怒ったら『いやあ、先生、バルセロナのプライベートビーチにはトップレスの美女がいっぱいいるんですよ』と(笑い)。ナメとんのかと思ったけど、そのぐらいの心の余裕も持っていないとな」

自立、運、余裕。吉村氏の金言は選手たちに響くか。

☆よしむら・かずお=1951年7月6日生まれ。熊本県出身。71年全日本新人体重別選手権優勝。73年スイス・ローザンヌ世界選手権軽中量級3位。80年に引退後は柔道私塾「講道学舎」の指導者として古賀稔彦氏、吉田秀彦氏らを育てた。96年から日本代表女子監督を務めて谷亮子氏らを指導。2004年アテネ五輪では日本女子に金メダル5個をもたらした。11年7月の本紙連載「金メダリストのつくりかた」では柔道界に反響を呼んだ。13年に強化委員長を退任。

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