【昭和~平成 スター列伝】“鋼鉄男”死去 藤波を驚かせ、前田の凱旋試合相手を務め、超人と伝説の金網王座戦

初来日時のオーンドーフ。ハンサムで鋼のような肉体を誇った

「鋼鉄男」と呼ばれ、1980年代の新日本プロレスで強烈なインパクトを残したポール・オーンドーフが11日(日本時間12日)に亡くなった。71歳だった。

80年代のプロレスファンには忘れられない存在だった。元NWA世界ジュニアヘビー級王者ヒロ・マツダの指導を受けて76年にデビュー。「未知の強豪」と呼ばれ、80年10月10日開幕の「闘魂シリーズ」に初来日。いきなり開幕戦で藤波辰巳(現辰爾)をリングアウトで撃破してファンを驚かせた。金髪で鋼のような肉体を持ちスピードとテクニックも抜群。藤波も「あの体で僕と同じスピードだなんて…。信じられない」とぼうぜんとした。

同シリーズの外国人エースは“超人”ハルク・ホーガン。すでに米国でも地位を確立していたオーンドーフは連日、ホーガンとタッグを組みメインに登場。開幕から連勝を続け、長州力や木村健吾(現健悟)にもシングルで勝利した。だが10月30日熊本でのアントニオ猪木とのシングル戦は卍固めで敗れた。それでも「頑丈なテクニシャン」とのインパクトを日本のファンに残した。

再度、鋼鉄男にスポットライトが当たるのは83年4月21日、蔵前国技館。欧州遠征から約1年ぶりに帰国を果たした“格闘王”前田日明の凱旋試合の相手を務めたのだ。

前田のセコンドには“神様”カール・ゴッチ。前田はわずか3分36秒、フライングニールキックから人間風車を決めると、そのまま地獄風車固めで3カウントを奪った。あえて前田の引き立て役を引き受けたオーンドーフは「ヤングボーイの気迫に押されてしまった」と余裕の言葉を吐いたが、評価は下がってしまった。

当時24歳の前田は「緊張してしまった。しかしIWGPでやれる自信がついた。見ていてください」と初々しい笑顔を見せた。

来日はわずか4度だったが、米国ではスーパースターの座を築いた。83年12月にWWF(現WWE)入りすると「ミスターワンダフル」のニックネームを得て、ホーガンとの抗争に突入する。

両雄の抗争のクライマックスは85年3月31日に行われた記念すべき第1回祭典「レッスルマニア1」(ニューヨークのMS・G)だった。オーンドーフはロディ・パイパーと組んでホーガン、ミスター・T組とメインで激突。しかもレフェリーはボクシング元世界ヘビー級王者のモハメド・アリという豪華な顔ぶれだった。

アリがプロレスのリングに上がるのは76年6月26日、日本武道館の猪木との異種格闘技戦以来、実に約9年ぶりで、観衆は超満員ソールドアウトの2万6000人。当時では超破格の「13億興行」となった。

試合は悪党軍の無法行為に怒ったアリが鉄拳制裁を加えて大観衆を狂喜させると、ホーガンがアックスボンバーでオーンドーフを沈めた。この試合を機に超人とオーンドーフは結託。WWFでナンバー2の地位をつかんだ。敗れたとはいえ、日本で「鋼鉄男」と呼ばれた男が世界の頂点を極めた瞬間だった。

だが超人と離反して再度抗争に突入。86年12月のMS・Gでは歴史に残る壮絶なWWFヘビー級戦の金網マッチで敗れている。その後はWCWを経て、首の負傷のため、現役を退いている。2005年にWWE殿堂入りを果たした。訃報に際しホーガンはツイッターで「ブラザーの冥福を祈る。私たちの試合のすべてに感謝し、あなたを愛している。天国はさらにワンダフルになるだろう」と哀悼の意を表している。

日本では基本に忠実なスタイルを貫き、米国ではアメリカンプロレスに徹した。日本での知名度以上に、米国では高い評価と人気を集めた名選手だった。(敬称略)

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