ダルビッシュら育てた高校野球の名将 若生正広さんが最後に中学生を指導した訳

東北福祉仙台北リトルシニア【写真:高橋昌江】

若生監督の教え子が語る感謝「グラウンドに立つと、目が変わる」

母校の東北(宮城)や九州国際大付(福岡)、埼玉栄(埼玉)で監督を務めた若生正広さんが、7月27日、70歳で亡くなった。東北と九州国際大付で合わせて春夏11度の甲子園の舞台に立ち、2003年夏に東北で、2011年春には九州国際大付で準優勝。ダルビッシュ有(パドレス)や雄平(ヤクルト)ら多数のプロ選手も育てた。その名将が、最後に見ていたチームがこの夏、2つの全国大会に出場する。【高橋昌江】

若生さんは仙台市出身。兄3人も宮城の高校野球界で活躍した「若生4兄弟」の四男で、東北では1年から4番を打った。3年夏には主将として7年ぶりの甲子園出場に貢献。リリーフ投手として大舞台のマウンドにも立った。法大を経て社会人でプレーした後、埼玉栄でコーチ、監督として3年ほど指導。1990年に母校・東北のコーチになり、1993年秋に監督に就任した。2年間監督を退いた時期もあったが、1997年1月に復帰すると、2003年夏には2年生エース・ダルビッシュを擁し、甲子園決勝まで進んだ。

春夏7度の甲子園に導いた東北の監督を2004年夏で退任。2005年秋から九州国際大付の監督となり、難病に見舞われながらも2009年夏にチームを27年ぶりの甲子園へ。そして、東日本大震災で故郷が被災した2011年の選抜では、準優勝を果たした。2015年から指導者のスタートを切った埼玉栄で監督、2019年から総監督を務め、2020年春に退任した。

その後、自宅のある仙台に戻っていた若生さんが、昨年6月ごろから訪れていたチームがある。中学硬式野球チームの東北福祉仙台北リトルシニアだ。東北の監督時代の教え子である中町方成さんが監督を務めており、若生さんの自宅がある仙台市泉区にホームグラウンドがある。

「私から若生先生に『是非、中学生を見てください』と電話をしまして、来ていただくようになりました」と中町監督。車椅子に乗りながらキャッチボールもしていたという。杖をついて立ち、選手のスローイングもチェック。カバーリングについては「もう少し、徹底させた方がいい」と助言を受けた。「グラウンド内の全力疾走ができているチームだから、もっと伸ばせ。いいチームを作っているな」と褒められたことは勲章だ。

高校時代はマネジャーを務めた中町方成さん(左)と若生正広さん【写真提供:中町方成】

高校時代はマネジャーとして若生監督から学び「礼儀、挨拶、掃除には厳しく」

「グラウンドに立つと、目が変わりますね。元気で、声も出ていました。褒めてもらったことも、こうした方がいいんじゃないかと指導いただいたこともあり、まだまだ学ぶことがあるなと感じました。ご自宅にも結構うかがって、お話を聞きました」

そう話す中町監督は高校2年の時、右手中指を骨折。靭帯も断裂する大怪我を負い、マネジャーになった。監督である若生さんのユニホームの着替えを準備したり、寮に泊まる日は布団を敷いたりと、身の回りの世話をして「いい勉強になった」という。

「礼儀、挨拶、掃除には厳しく、人として成長させてもらいました。今、こうして子どもたちと一緒にグラウンドに立って野球ができているのは、当時があったからだな、と思いますね。若生先生は結構、お茶目なところがあって。今だから言えますけど、1つ1つの行動とか、結構可愛らしいんですよ。遊び心もあって、そういうところもすごく学びました」

中町監督の1学年上でマネジャーをしており、現在、息子が東北福祉仙台北リトルシニアに所属している砂田健二さんも「今に生きていることしかない」と話す。「高校で若生先生と出会っていなければ、今ごろどうなっていたか。挨拶ひとつ、靴をそろえることひとつもできないところからのスタートだったので。教わったことは、仕事にも子育てにも生きることばかりです」と感謝する。

リトルシニア日本選手権とジャイアンツカップ“2つの全国大会”に出場

今年6月に行われた日本選手権の東北予選。東北福祉仙台北リトルシニアは準決勝で青森山田シニアに0-3で敗れた。試合後、中町監督は「すみません。負けました」と若生さんに報告。「『何やってんだよ』とちょっと怒られました」。ただ、出場枠は3つ。「3位決定戦に勝つと全国大会に出場できるので頑張ります」と誓い、6日後の3位決定戦で6-0の勝利。7年ぶり3度目の日本選手権出場をつかんだ。

その翌週に行われたジャイアンツカップの東北大会では、南東北ブロックで優勝。本大会への初出場を決めた。「第49回日本リトルシニア日本選手権大会」(8月2~6日、仙台市民球場ほか)と「第15回全日本中学野球選手権大会ジャイアンツカップ」(8月16~20日、いわきグリーンスタジアムほか)。東北福祉仙台北シニアは、この夏に開催される2つの全国大会に出場することになり、「若生先生はすごく喜んでくれていました」と中町監督。しかし、練習や大会へ「また見に行くよ」と言って矢先に体調が悪化した。

7月25日の21時56分、中町監督のスマートフォンが鳴った。「中町、すぐに来てくれ」。若生さんからだった。高校生の息子を連れ、若生さんの自宅に駆けつけた。高校時代の同級生や先輩に「来た方がいい」と連絡し、寝返りの補助やマッサージをし、身の回りを整えた。2日後の27日、午前6時18分、若生さんは息を引き取った。

「若生先生は教え子の子どももすごく可愛がって、面倒を見てくれました。野球部だけでなく、男女問わず、生徒の名前をフルネームで覚えている。妻も東北の陸上部で若生先生の教え子なんですけど、すごく可愛がってくれて。本当に生徒から愛されていましたよね」と中町監督。砂田さんによると、サッカー部やテニス部など、他の部に所属していた当時の生徒たちが若生さんとの思い出をSNSに投稿し始めたという。「陸上部だった人も『練習中、若生先生に声をかけてもらって頑張れた』と」と砂田さん。そういった反応に教え子たちは、恩師が生徒へ注いできた愛情を噛み締めている。

東北福祉仙台北シニアは2日、日本選手権で奈良西リトルシニアとの初戦に臨む。「いい報告ができるように選手と一緒に戦っていきたいなと思います。指導者ができることは、選手が力を発揮できる環境作りしかないと思うので。選手の力を引き出せるように働きたけたいなと思います」と中町監督。高校野球の名将が最後にアドバイスを送ってきた中学生たちが、全国舞台で躍動する。(高橋昌江 / Masae Takahashi)

© 株式会社Creative2