【山崎慎太郎コラム】「権藤さんを胴上げしよう」を合言葉にやっていました

祝勝会の場が慰労会に…

【無心の内角攻戦(5)】近鉄は1988年10月19日、ロッテとのダブルヘッダーの第2試合に引き分け、あと一歩のところで優勝を逃しました。みんなの落胆はすごかった。残酷な結果になって宿舎に帰って残念パーティーをやるんですけど、おかしなテンションになりますよね(笑い)。

僕はプロ4年目でも、一軍で投げさせてもらって1年目であそこまでの経験ができた。後にも先にもあれだけの緊張感はないです。10・19までの1か月間のみんなの気持ちの引っ付き具合、プロになっても「勝つ」ということに一つになる。個人事業主だから自分の成績が良ければっていうのもあるけど、チームの勝ちに対する気持ちがだんだん強くなって、いいおっさんが悔しくて泣いているし、年なんか関係ねえわって。わがままなタイプの僕をみんな弟みたいに思ってくれていたと思うし、年が近い選手も多く、派閥もなくてやりやすかった。村田辰美さんが投手陣をまとめ、阿波野秀幸さんと小野和義さんは刺激し合い、みんな認め合いながら切磋琢磨できていました。

今でも投手コーチだった権藤博さんから号令かかったらみんな集まると思いますね。「権藤さんを胴上げしよう」を合言葉にやっていました。ほっといたらあっちこっち向いてしまう“やんちゃくれ軍団”を権藤さんがまとめてくれていたんです。吉井理人さんはカーッとなる性格で、阿波野さんは繊細だし、ガーッとは言わない。僕なんかは怒ってもへこたれないタイプと思っていたでしょう。みんなの性格を把握して接してくれ、だからみんな慕うと思うんです。

投球フォームがどうこうは指導されたことはないですよ。自分が投げすぎて壊れた人なんで投げすぎたら怒られる。キャンプでも球数がいってたら「いつまで投げてんだ」って怒られる。技術指導は…チェンジアップですね。真っすぐの遅いやつだから投げてみろって。それがものすごく役に立った。あとマウンドでの気持ちの持ち方。どんだけピンチを背負ってもコーナーをつつくようなところに投げるな、真ん中にチェンジアップ投げとけって。なるようにしかならない、困った時は根性を決めていくだけやと。

権藤さんに「インサイド行け!」と言われて行ったら抑えられる。だからみんな行くし、きれい事じゃない野球ですよね。3位までに入ればいい、じゃなくて負けたら終わりなんで、やられたらやり返す。あの時代は他球団の選手としゃべるなと言われてましたもん。仲良くするなんて考えられない。今みたいに合同自主トレで球種を教えてくれるとかないですもん(笑い)。教えてほしけりゃカネ払えっていう時代ですよ。

10・19の悔しさを持ってオフに入り、翌89年のキャンプにも入る。「来年こそは」とみんな思っていました。

☆やまさき・しんたろう 1966年5月19日生まれ。和歌山県新宮市出身。新宮高から84年のドラフト3位で近鉄入団。87年に一軍初登板初勝利。88年はローテ入りして13勝をマーク。10月18日のロッテ戦に勝利し「10・19」に望みをつないだ。翌89年も9勝してリーグ優勝に貢献。95年には開幕投手を務めて近鉄の実質エースとなり、10勝をマークした。98年にダイエーにFA移籍。広島、オリックスと渡り歩き、2002年を最後に引退した。その後は天理大学、天理高校の臨時コーチや少年野球の指導にあたり、スポーツ専門チャンネル「Jスポーツ」の解説も務めている。

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