戦争の記憶 2021ナガサキ 戦争で得られるものない

「戦争で得られるものは何一つない」と話す田中さん=佐世保市黒髪町

 太平洋戦争末期の1944年10月25日、フィリピン・レイテ沖。旧日本海軍と米国などの連合軍が戦闘を繰り広げる中、日本の重巡洋艦「鳥海」が攻撃を受けて沈没した。
 このとき鳥海の艦長だったのは、長崎県佐世保市黒髪町の田中暁(さとる)さん(93)の父穣さん=享年(47)=。暁さんは、疎開先の広島県呉市の中学校で訃報を聞いた。「父上は名誉の戦死を遂げられた」。校長からそう告げられると、「日本のために、よくぞやってくれたと思った」。父の戦死は「誇り」だった。
 暁さんは28年、神奈川県横須賀市で3人きょうだいの長男として生まれた。穣さんは海軍大学校を卒業した優秀な軍人で、戦時中はほとんど家に帰らなかった。呉市に疎開した44年ごろ、穣さんは軍艦に乗ることを志願して佐世保にいた。「長男として、留守を頼む」。手紙には、決まってこう書かれていた。
 44年10月下旬、フィリピン・レイテ沖で大規模な海戦が起きた。鳥海も進撃したが、米軍の攻撃を受けて大破。暁さんが後に聞いた話によると、穣さんは乗組員を駆逐艦「藤波」に移動させた後、1人鳥海に残り、艦と共に沈んだ。「自ら志願して船に乗った。父も本望だっただろう」。暁さんはそう思っている。
 鳥海の乗組員を乗せた藤波もこの後、攻撃を受けて沈没。この海戦では戦艦「武蔵」を含む多数の軍艦を沈められ、日本の連合艦隊は事実上壊滅した。神風特別攻撃隊が初めて出撃したのもこの時だった。
 暁さんは父の死から半年後の45年4月、海軍兵学校に入学。歩兵銃を持ってほふく前進をするなど、一日中訓練に励んだ。佐世保など日本本土は空襲に遭い、負け始めていると感じていたが、それを口に出すことはできなかった。卒業後は戦場に出て行くと聞いていて、「死ぬ覚悟をしていた」。
 同年8月15日、「校庭に整列せよ」との指示を受けた。真ん中にラジオがあり、終戦を知らせる玉音放送を聞いた。「負けたと実感して悔しかった」
 終戦から2年後、佐世保にあった父の官舎に家族で移り住んだ。まだ焼け野原で、佐世保駅から現在の市役所付近にあった建物が見えた。進駐軍は想像とは全く違った。気さくにチョコレートをくれ、父が戦死したことを伝えると「ソーリー」と謝ってくれた。米兵にラブレターを渡す日本人女性も多かった。「人間としては、とても憎む気持ちにはならなかった」
 佐世保は米軍相手の商売で息を吹き返した。50年には朝鮮戦争が勃発。ポケットにドル紙幣を詰め込んだ米兵が気前よく金を使い、特需に沸いた。暁さんはアルバイトをしながら福岡の大学を卒業。27歳で結婚し、2人の子どもを授かった。30代半ばに佐世保市内でホテルの開業に携わり、そこで70歳まで働いた。
 「きょうだい仲良く、母を敬い、しっかりした人間になれ」。父の教えを胸に、戦後を必死に生き抜いてきた。戦争のせいで家族に会えずに死んだ父を思い、静かに言った。「戦争で得られるものは、何一つない」

1943年ごろ撮影した田中暁さんの家族写真。右端が父穣さん、左から2人目が暁さん(田中暁さん提供)

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