震洋訓練所の写真発見 米国立公文書館から40枚 関係者「貴重な資料」

「震洋」の訓練艇(米国立公文書館所蔵、長崎平和推進協会写真資料調査部会提供)

 太平洋戦争中に長崎県東彼川棚町に設置された川棚海軍工廠(こうしょう)や水上特攻艇「震洋」の訓練所などの軍事施設を撮影した終戦直後の写真約40枚が、米国立公文書館で見つかった。佐世保市に進駐した米軍第5海兵師団に関係する写真約4千枚の中に含まれているのを、長崎平和推進協会写真資料調査部会(松田斉部会長)が確認した。両施設の写真は珍しく、現存する構造物も少ないことから関係者は「当時の様子を知る貴重な資料」と驚いている。
 同部会によると、昨年、地元テレビ局が戦後75年特番の取材過程で米国立公文書館から写真のデータを入手。番組放送後、同部会が寄贈してもらい、分析を進めていた。1945年9月以降、西九州地域で撮られたものが多く、旧日本軍の武装解除に伴う査察などを撮影したとみられる。
 川棚海軍工廠は戦時中、現在の百津郷一帯で主に魚雷を製造。軍用地は終戦時には町の総面積の1割を占めるまでに広がっていたが、現存する当時の建物は少なく、写真も乏しい。
 写真には「Kawatana Naval Arsenal(川棚海軍兵器廠)」の説明文が付き、のこぎり屋根の工場や防空壕(ごう)が手前にある建物、砲台などが写っている。
 同町の軍事遺構に詳しいボランティアガイドの古川恵美さん(46)は写真を見て「ほとんどが初めて見る写真。『本物だ』という感動で胸がいっぱいになる」と驚く。当時の配置図などと突き合わせ「のこぎり屋根の工場は鋳造工場、防空壕が手前にある建物は庁舎かもしれない。詳しく調べたい」と話した。
 新谷郷にあった川棚臨時魚雷艇訓練所は、戦争末期の44年に開設。木造の小型艇に爆薬を積み、敵艦に突撃する海軍唯一の水上特攻艇「震洋」の訓練が行われた。地元住民が、戦死者を祭る慰霊碑や遺品などを収蔵する資料館を管理しているが、当時の様子がわかる写真はほぼ残っていない。

「震洋」の訓練艇に搭乗する日本兵の写真(米国立公文書館所蔵、長崎平和推進協会写真資料調査部会提供)

 今回の写真には、震洋の訓練艇が大量に港に停泊している光景や日本兵が実際に搭乗している様子、前後左右や内部のエンジンなど複数の角度で撮影した訓練艇が写っている。「多数の小型艇が、日本に侵攻する米軍に対して使用する準備ができている」という意味の英語の説明文や「Suicide Boat(自殺ボート)」の表記などが添えられている。
 訓練艇の揚げ降ろしに使われ、現在は基礎台だけが残っている海上クレーンの写真もあった。戦時中に訓練所にいた元隊員の進藤貞雄さん(96)=川棚町=に写真を見せると「懐かしい」と目を輝かせた。「私がいたのは訓練所ができて間もない時期。こんなにたくさんの船はなかった。クレーンもなかったので、仲間で力を合わせて船を運んだのを思い出す」と振り返った。
 同部会は「歴史を有効に活用してほしい」として、町などへのデータ寄贈も検討している。

川棚海軍工廠とみられる写真。手前に防空壕が確認できる(米国立公文書館所蔵、長崎平和推進協会写真資料調査部会提供)

© 株式会社長崎新聞社