多くの困難乗り越え 車いすバスケ草創期支えた2人の長崎人

日本車いすバスケットボール連盟の初代会長を務めた浜本さん(JWBF提供)

 24日に開幕を迎える東京パラリンピック。長崎市出身で22歳の鳥海連志(WOWOW)、24歳の川原凜(ローソン)の県勢2人が日本代表入りした車いすバスケットボールは現在、国内でもパラスポーツの花形に定着した。そんな注目競技の日本の草創期を支え、けん引した人たちの中に長崎県出身者がいる。
 日本車いすバスケットボール連盟初代会長の故・浜本勝行さん(2008年に68歳で死去)=長崎市出身=と、九州連盟初代会長の吉永栄治さん(81)=大分県在住、松浦市(旧北松福島町)出身=。ともに若くして下肢不自由となったが、車いすバスケットとの出合いがそれぞれの生きる道を照らした。
 前回の東京パラが開かれた1964年ごろを「福祉の夜明け前」と表現する人もいる。そのころから、障害のある人のスポーツを通じた社会参画のために奔走した先駆者たち。多くの困難を乗り越えての功績がつながって、現在の障害者スポーツの興隆がある。

■生涯を懸けて

 浜本さんは大分県の国立別府重度障害者センター入所時に車いすバスケットを始めた。きっかけは「日本パラリンピックの父」と称される故・中村裕医師の勧め。日本代表として出場した64年の東京パラが、その後の活動の原点となった。
 日本では障害のある人の多くが、リハビリ施設や自宅などで余生を送っていたような時代。対して、さまざまな仕事に就いて自立し、明るく生き生きとした欧米選手の姿に、多くの日本人は驚かされた。
 東京パラ終了後、関東で就職。日本初の社会人クラブを結成して選手を続けながら「障害のある人の社会参画の近道」として、車いすバスケットの普及に生涯を懸けていく。資金集めに駆け回り、70年に全国大会を開催。75年に日本連盟を設立して会長に就いた。
 国際社会の懸け橋としても貢献した。81年の「国際障害者年」を記念する日米親善大会を企画して全国を転戦。アジアを中心に障害者スポーツの普及が遅れている国々への指導者派遣、交流大会開催などにも尽力した。
 誰からも「浜ちゃん」と呼ばれる温厚で愛された人柄。障害者スポーツの発展を支援してきた上皇ご夫妻も、その熱意に感銘を受けて「浜ちゃん」と呼び、親交を深められたほどだった。

■声を届けよう

 吉永さんは東京パラの4年後、27歳で大分県の社会福祉法人「太陽の家」に入所して車いすバスケットを始めた。「それまでは“病人”だったけれど、バスケットが面白くてどんどん元気になった。一日走り回っても疲れないような体力がつき、みんな笑顔になった」と当時を振り返る。
 「もっと多くの人に知ってほしい」と普及のために九州各県を訪ね、それは関西にまで広がった。スポンサーから寄付を集めて西日本地区で試合をしていると、浜本さんが75年に日本連盟を創設。各ブロックに地方連盟が組織され、九州連盟の初代会長に就いた。
 太陽の家の職員になり、仲間たちとバリアフリーの町づくり運動にも取り組んだ。だが、思うように進まなかったため、政治の世界に直接声を届けようと、75年から3期、別府市議会議員を務めた。日本初の「車いす市議会議員」だった。
 今は以前のように、障害のある人に仕事がない時代ではなくなった。車いすバスケットを職業にする選手もいる。「時代が変わって豊かになった」と感心する一方で「東京パラ終了後も続くといいけれど」と心配する。「障害のある人がスポーツをしながら、いい社会生活が送れるようになってほしい」。2度目の自国開催となる祭典に、変わらぬ願いを託す。

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