ドミニカ共和国、アメリカ2つの文化で育ったレジェンド2世

ホセ・モタ氏。後方の写真は父・マニーさんとのツーショット

【元局アナ青池奈津子のメジャー通信=エンゼルスのテレビ解説者ホセ・モタ氏(1)】「久しぶりだね!」

2015年、ロサンゼルスに越してきて間もない中、ペーパードライバーだった自分を鼓舞してようやくたどり着いたエンゼル・スタジアムの駐車場で、人生で初めて購入した中古のカローラのセキュリティーアラームの止め方が分からずに泣きそうになりながら遅れてフィールドに着いた。そんな私に、そうにこやかに声をかけてきた黒人男性がいたのを、先日のオンラインインタビューで本人から言われて思い出した。

ホセ・モタさん。エンゼルスのテレビ解説者の一人で、大谷翔平選手と絡む陽気な黒人リポーターをテレビで見て記憶している人も多いと思う。

どうやら再会に当たる人物に対し、その時はなんとなく話を合わせてあいさつしたのだが7年越しに出会いの経緯を聞くと「WBCで会ったじゃない! サンディエゴで! あれは2009年だったかな?」。

当時、大リーグ取材駆け出しでいっぱいいっぱいだった私は(今でも大概いっぱいいっぱいだが…)もう全く覚えていないので、画面越しに平謝りしかできないでいると、ホセさんは「知ってる! 声かけた時に全然覚えてなさそうだったもん!」と意に介さぬ様子で笑ってくれた。

ダッグアウトで会うホセさんはいつも明るい。最初は西海岸の人はニューヨークに比べてフレンドリーだな、と思ったが、すぐにホセさんが特別なのだと分かった。

「僕はね、ドミニカ共和国の生まれで、大リーグで20年のキャリアを持つ野球のレジェンド、マニー・モタの息子。女2人、男6人の8人兄弟の2番目で長男。高校まではドミニカとアメリカの2つの文化の中で育ったよ」

父マニーさんは選手、コーチと経てドジャースで長年スペイン語放送を担当する人物。選手としてはドジャース歴が最も長く、ホセさんの幼少期の記憶はドジャー・スタジアムであふれているという。

「僕ら家族は9月から6月までをドミニカ共和国、6月から8月までをアメリカで過ごす生活だった。両親がとにかく教育を重視していたから、高校までスペイン系の規律の厳しいカトリックの素晴らしい学校に行かせてもらったんだけど、夏休みになるとロサンゼルスに行って父に会えたし、ドジャー・スタジアムに行けたし、ディズニーランド、ナッツベリーファーム(遊園地)にも連れてってもらった。アメリカは当時の僕ら兄弟にとってはまさにバケーション地。両親が毎年新しい家を借りてくれたから、毎年新しいご近所さんにも出会えたし、飛行機に乗れることが皆楽しみだった。母は8人の子供を連れて、大変だっただろうけどね。母マルガリータは今も元気な79歳。両親は今もドミニカ共和国を居住地にしていて、母は兄弟の半分を父が野球シーズンで忙しい時に母国で一人で産んでいるから、母こそがうちの家族の基盤だね。あっ、末っ子だけは77年のドジャースとヤンキースのワールドシリーズ直後でアメリカ生まれだ」

さすがは放送人。1つの質問で詳細の詰まった回答をくれるので、山ほど質問が湧き、結局1時間以上にわたりインタビューさせてもらうことになった。

次回はホセさんの野球選手時代の話を中心に。

☆ホセ・モタ ドミニカ共和国出身。56歳。エンゼルスの実況アナウンサー兼解説者(スペイン語と英語)。1985年、ホワイトソックスにドラフト2位指名されプロ入り。91年にパドレスで二塁手としてメジャーデビュー。メジャーでの出場は19試合にとどまる。引退後、97年からFOX局でスペイン語の実況中継をするようになり、2002年からエンゼルスのブロードキャストメンバーに。ラテン系生まれの元選手の放送人は大リーグ唯一だ。

☆マニー・モタ ドミニカ共和国出身。83歳。1962年にジャイアンツの外野手としてメジャーデビュー。82年にドジャースでプレーヤー・コーチとなり、82年に引退。メジャー通算1536試合に出場し、打率3割4厘、1149安打、31本塁打、438打点の成績を残す。長男ホセと次男アンディは元大リーガー。六男トニーもドジャース傘下のマイナーリーグでプレーし、コーチになっている。

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