新潟亀田I・C周辺の大規模開発に貢献した株式会社平松商事(新潟市中央区)、今後の開発案件にも注目集まる

新潟県土地改良事業団体連合会(県土連ビル、写真左)とアークプラザ新潟

新潟市中央区姥ヶ山、江南区下早通柳田の大型開発に尽力

アルビレックス新潟のホームスタジアムである「デンカビッグスワンスタジアム」、「ハードオフエコスタジアム新潟」、新潟市民の生命を守る「新潟市民病院」、県下最大規模を誇るスーパーセンタームサシ新潟店がキーテナントの「アークプラザ新潟」、同じく県下最大規模の「イオンモール新潟南店」−−。

新潟市中央区長潟周辺には、これらの施設が立ち並ぶ。日本海東北自動車道の新潟亀田インターチェンジがすぐ近くにあるほか、新潟バイパス紫竹山インターチェンジ、JR新潟駅も車で10分もかからない場所にありアクセスも良い。

今や新潟県内屈指の人が集まるエリアになっていて、今後のさらなる発展も期待されている。

だが、このエリアは、僅か20~30年前までは、いまの姿からは想像がしづらい水田が広がる長閑な田園地帯だった。その田園地帯の開発に大きく貢献してきたのが、昭和57年創業の株式会社平松商事(新潟市中央区)で、同社創業者で現代表取締役者社長の平松勝氏だ。

平松氏は「長男の宿命」として、家業の農業に一時期携わった。その中で当時の減反政策と大規模農業経営の波が押し寄せてくる様子を目の当たりにし、「水田単作農業者は複合経営しないと大変な時代になる」と直感、1971年に地元の不動産会社へと就職した。

新潟市江南区(ハードオフエコスタジアムの程近く)に生まれた平松氏は、子供の時分から、「いずれ自分の生まれた場所を(新潟市の中心街である)古町以上の街にしてみたい」と想像していたという。こうした思いが不動産業界への就職へと繋がっていった。

就職して翌年の昭和47年に、新潟出身の田中角栄総理大臣が誕生した。「田中総理の誕生とともに日本列島改造論のブームが起こり、新潟の鳥屋野潟付近でも『秘密裏に新幹線駅やモノレール構想が浮上している』と上司から聞きました」と平松氏は当時の様子を振り返る。当時は、新潟県庁の鐘木地区移転の構想も浮上していたそうだ。

そんなこともあり、勤務した不動産会社では、(地元出身のため)情報に詳しいことから主体的に鳥屋野潟周辺の土地買収に携わっていったという。

デンカビッグスワンスタジアム(写真右)とハードオフエコスタジアム新潟(写真左)

その後、長潟周辺の開発にもっと携わりたいと1980年に独立(会社設立は1982年)した。ただ、独立後にいきなり長潟エリアの大規模開発に取り組み始めていたわけではない。最初は大手商社と組んで、新潟市中心部のマンション開発などの仕事をしていたそうだ。

そんな中で、当時新潟県知事だった金子清氏(第53代新潟県知事、在任期間は1989年〜1992年)の時代に、300億円近くの予算を投じて長潟を一大開発するプロジェクト構想が浮上。平松氏はこれに呼応し、その一役を担いたいと勉強会(十日会)を立ち上げ、地域の発展に寄与するため開発に関わり始めた。

土地をまとめあげるまでにまでに10年費やす

独立後、最初に携わった開発案件は、高齢者福祉施設だった。

その後、平松氏の携わる開発規模は一気に拡大していき、平成4年にはホームセンタームサシなどを展開するアークランドサカモト株式会社(新潟県三条市)から業務委託を受け、「アークプラザ新潟」の土地(亀田インターのすぐ横の4万5,000坪)開発に着手した。

だが土地をまとめあげて納品するまでにまでに10年の歳月を費やすことになったという。地権者は70世帯。アクセスのよい土地ゆえに、将来自社で使用することを見込んで購入していた非農家(企業など)の地権者もいて、交渉が難航したのだ。「(農作業が始まる前の)朝5時に地権者である農家を訪問し交渉を重ねました」(平松氏)。

また、面積の3%を公園用地として寄贈を求める行政サイドの要求に対応していくこにも手間がかかった。加えて、農振地域だったことから、農地課や農業委員会が開発許可に対し頑として首を縦に振らなかったという。

そこで、平松氏は、このエリアの物流機能構想が描かれていた「第四次全国総合開発計画(四全総)」を持ち出しながら、幾度も新潟市の都市計画課、都市開発課、農林課および農業委員会と交渉を重ねた。こうした労力が結実し、10年後の2002年に、土地をまとめ上げて斡旋できたという。「10年間で、開発コンサルタントは3社交代しましたし、アークランドサカモトの開発部長も10人近く変わったと思います」と平松氏は述懐する。

10年近くも粘り続けることができた理由を尋ねると、「自分の力を試して見たいという思いが強かった」(同)と語っていた。

アークランドサカモトの交渉が進む最中の1996年には、地権者との交渉を重ねた末に、長潟の土地をまとめあげ、農業振興地域を解除し、の反対側にある土地(約3万6,000坪)を「イオンモール新潟南」の用地として斡旋。翌2008年にも、イオンの西側にある土地2万坪の区画整理事業を企画し、「トヨタカローラ新潟本社・亀田新潟店」と、ビジネスホテル「ビジネスイン」、「ミツワ電機」などに斡旋している。

なお平松氏は、経営者としてだけでなく、全国宅地建物取引業協会連合会(全宅連)理事、新潟県宅地建取引業協会会長を務め、業界の発展や、地域の改題解決にも奔走してきた。例えば、東日本震災における被災者居住支援(約1,800世帯)、糸魚川火災居住支援(54世帯)のほか、空き家14万2,000戸、当時)問題で東日本地区15宅建協会と被災時支援の事前協議会開催した。こうした功績が評価され、2018年春には、県民の模範となる人に贈られる「黄綬褒章」を受賞している。

イオンモール新潟南

一方、平松氏は、長潟について「色々な人、物、情報が集まってくる結節点。また大きな都市公園(鳥屋野潟公園など)があり、多くに人々に親しまれている。まだまだ潜在力は高い」と話す。実際、多くの農地などがあり、以前から大型商業施設の進出話などもある。

そんな平松氏に、「今後の具体的な開発計画などはあるのか?」と尋ねると、こんな答えが返ってきた。

「詳細は話せないが、計画はある。生きがいを感じる事業、高齢化社会に適応する事業、集客力のあるイベント会場、感動を生む施設のほかに、6次産業化の拠点となる物産などの施設や、食と健康をテーマにした施設などだ。まずはこうした施設で観光に訪れてもらうとともに、(企業誘致やテレワーク拠点の整備など)働く場なども整備し定住人口の増加につなげていきたい」

株式会社平松商事代表取締役者社長の平松勝氏

© にいがた経済新聞