伝説のアントニオ猪木VSジョニー・バレンタインを再現! 猪木の代名詞はこの時、生まれた

試合後も乱闘を展開する猪木とバレンタイン(66年10月、蔵前)

【プロレス蔵出し写真館】東京スポーツ新聞社OBで、東スポ退社後は全日本プロレスの宣伝企画室長を務めた飯山和雄さんが8月9日、肺梗塞のため亡くなっていたことがわかった。84歳だった。

飯山さんは1962年(昭和37年)に東スポに入社し、66年10月12日(東京・蔵前国技館)の東京プロレス旗揚げ戦で行われたアントニオ猪木VSジョニー・バレンタイン戦を取材した、数少ない記者だった。

この試合は取材した記者、カメラマンが口々に「凄かった」と言っていた試合だが、映像が残されていないため会場にいた者だけ観ることのできた、まさに猪木の〝伝説の名勝負〟だ。

飯山さんは生前、「54年前の試合だから、鮮明に覚えているわけじゃないけど…。バレンタインはエルボーがうまかったね~。猪木はガウンを脱ぐのが格好よくて、試合の表情も迫力があった。バレンタインはアッパーカット気味のパンチも凄くて、猪木のアゴを集中的に攻撃してたね。でも、それにひるまず米国遠征でモノにしたひねりの利いた水平空手で対抗して、試合はえらい盛り上がりようだったね」と語っていた。

飯山さんを偲び、当時の署名入り本紙記事をもとにこの試合を振り返る(一部加筆)。

試合をやるのは8か月ぶり、日本のリングに上がるのは2年7か月ぶりという23歳の猪木は、日の丸とJAPANの文字が入ったガウンを着用し、斎藤昌典(後のマサ斎藤)とマンモス鈴木を従えリングイン。この試合は当時としては珍しい時間無制限1本勝負のデスマッチ・ルールで行われた。

試合はバレンタインが先手を取り、執拗なスリーパーホールド。バレンタインの攻めに押された猪木は、10分過ぎにロープに逃れてブレークした瞬間、バレンタインの頬に平手打ち。これでヒートアップし、猪木は強烈な水平打ち6連打で一気にラッシュした。赤コーナーに詰め、パンチの連打からテキサスブルドーザーを連続50回。タフなバレンタインががっくりヒザを落とした。しかし、バレンタインも一歩も引かず必殺ブレーンバスター(当時の呼称=エルボースタンプのこと)を連発し、猪木を場外に落とした。

第一のヤマ場、バレンタインのタックル2発目を猪木が機敏なフットワークでコブラツイストを決めると、弓なりになるバレンタイン。25分過ぎ、猪木は勝負に出た。バレンタインの額にナックルパンチ、空手チョップを集中、バレンタインの顔を血染めにした。

第二のヤマ場、猪木はバレンタインの巨体をネックブリーカーに決めると、バックブリーカー気味にパイルドライバー(当時の表現=アントニオドライバー)。するとセコンドのザ・ヘラキュリーが助太刀。

バレンタインは猪木をつかんでコーナーの鉄柱に叩きつけ、額を割る返礼。さらにエプロンからキック、パンチを決め、両者が血ダルマとなって文字通りのデスマッチの様相。

試合は大詰め、猪木の水平空手でもんどり打って場外に飛ばされたバレンタインは、猪木の足を取って場外に引きずり下ろしパンチ、空手の激しい応酬。座布団が飛び交い、若手レスラーと警官の輪の中で両者は真っ向から渡り合う。猪木は場外でまたもパイルドライバー(アントニオドライバー)。水平空手を叩き込めば、バレンタインの目はもうウツロ。レフェリーのラッキー・シモノビッチのカウント18のとき、猪木は転がるようにロープをくぐった。その直後、レフェリーはバレンタインのリングアウトを宣し、猪木の手を挙げた。31分56秒、猪木がカウントアウトで勝利した。

収まらないバレンタインはなおも猪木を追い回したが、すべてはあとの祭りだった。

猪木は試合後、「(バレンタインと)何度でも、誰とでもやります。ボクはプロだ。プロレス以外のボクサー、空手マン、だれの挑戦でも受けて立ちますよ」と語った。

猪木の名言「いつ何時、誰の挑戦でも受ける」の原点は、この試合にあった(敬称略)。

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