コロナ感染 8カ月ぶり退院に涙 突然“重症化”左半身まひ

妻と息子に迎えられ、車いすに乗って退院する北野市議(中央)=佐世保市

 長崎県佐世保市中心部にあるリハビリ病院。8月19日午前10時すぎ、正面玄関が開くと、車いすに乗った北野正徳市議(62)=同市江迎町=が外へ出た。昨年12月、新型コロナウイルスに感染。入院中に突然、脳梗塞に襲われ、左半身にまひが残った。「ここまで本当に長かった」。8カ月ぶりに仰ぐ空の下。入院生活を思い起こし、涙をこぼした。
 昨年12月14日夜。地元県議ら仲間内7人の飲食会に出席した。都市部を中心に新型コロナの「第3波」が広がっていたが、「地方はまだ先の話だろう」。そんな気の緩みもあった。一次会で切り上げて早めに帰宅。体内に潜むウイルスの恐怖を想像できなかった。
 3日後の17日午後、全身にだるさを感じた。熱を計ると38度。「風邪だ。寝れば治る」と自分に言い聞かせた。散歩や畑仕事を習慣としており、体力には自信があった。この時は新型コロナだとは思いもしなかった。しかし、翌朝も熱は引かなかった。
 「嫌な予感がした」
 18日、飲食会に出席した地元県議の感染が判明した。翌日、自らも濃厚接触者として検査を受けて陽性反応が出た。結局、参加者全員が感染し、クラスター(感染者集団)と認定された。
 病気の程度は「中等症」と診断され、すぐに市内の病院へ入院した。トイレ付きの個室に隔離され、感染してしまったことへの自責の念にかられた。せめて、症状や治療の過程を市民に知ってもらい何かの役に立てればと、自らの会員制交流サイト(SNS)で情報発信を始めた。
 症状は次第に落ち着き、12月27日に受けた検査は「陰性」を示した。1月2日の再検査で問題がなければ、すぐに退院できると病院から知らされた。「年明けには自宅に帰れるだろう」と安堵(あんど)した。
 しかし、そこで記憶はぷつんと途切れた。
 1月2日朝。北野正徳佐世保市議(62)の妻、香織さん(61)の携帯電話が鳴った。
 「ご主人が病室のトイレで倒れていました」。病院から連絡を受け、自宅を飛び出した。感染予防の防護服を着て病室へ入ると、全身に管を装着し、昏睡(こんすい)状態の夫が横たわっていた。

病院内で倒れて意識を失い、ベッドに横たわる北野市議=1月2日撮影(家族提供)

 前日の夕食はとっており、その夜から2日朝にかけての間に意識を失い倒れた。脳梗塞を発症し、血栓もできていた。こうした症状は、新型コロナウイルスのリスクの一つとされる。「この1週間が峠です」。医師から覚悟を求められた。
 数日が経過したある日、夫はうっすら目を開いた。しかし、左半身が動かせなくなり、意識の混濁が続いた。
 「北野市議、亡くなったらしいね」-。入院が長引くにつれ、香織さんは人づてにデマが流れていると耳にするようになった。隔離された病室には親族ですら自由に入れない。「ただ、生きてほしい」。その一心で、周りの声を気にする余裕はなかった。

 3月下旬。意識が一定安定した北野市議は、リハビリのため、市内の別の病院へ移った。会話や歩行の練習を懸命に繰り返し、夏に退院するめどが立った。
 8月19日、久々に帰宅した。退院に合わせ、東京で勤務する息子2人は介護休暇を取ったり、テレワークを利用したりして帰省してくれた。県外の娘も心配して度々連絡をくれる。
 左半身にまひが残るため、自宅の玄関やトイレを改修し、手すりを付けた。それでも自力では立ち上がれず、家族の手を借り、つえを突いて歩く。外出時は車いすが手放せない。
 これまで、一家5人の大黒柱としての自負があった。「今は家族の支えがあるから生きていける」。感謝と同時に悔しさが込み上げる。感情を抑えきれず、涙がぽろぽろとこぼれる。
 9月3日開会の定例市議会に出席する準備をしていた。しかし、自力での移動や介助の環境に不安があるため断念した。次の12月議会には出席し、市政の課題をただす一般質問の壇上に立ちたいと考えている。
 市民を代表する立場でありながら、軽率な行動でクラスター(感染者集団)の1人となってしまった責任の重さや、周囲の厳しい視線を痛いほど感じている。
 それでも、「コロナを契機に医療や福祉の政策は大きく変化する。これまで以上に大きな声で、地方行政の在り方を問い続けたい」。感染を経験した者として、身体に障害を抱える者として。自らに与えられた使命があると信じている。

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