【山崎慎太郎コラム】世界の王監督とダイエー選手の間のは溝があった

「世界の王さん」と選手の関係は…(東スポWeb)

【無心の内角攻戦(24)】1997年オフ、僕は2年契約でダイエーにFA移籍しました。王貞治監督率いる当時のダイエーは低迷していましたけど、いい選手がそろい、強くなる前の時期でした。環境が変わって戸惑うし、サイパンと違って高知キャンプは寒くて調整がうまくいくか不安でしたよ。FAなんで活躍して当たり前と周りに見られる。それはわかっていても調子が上がらず、1年目の98年は5試合で2勝3敗。工藤公康さん、武田一浩さんの二枚看板に食い込んでいけなかった。

王さんは…子供のころからのあこがれの人だし「お互いに頑張っていこうな」って言ってくれた。「世界の王さん」のイメージしかないし、みんなそんな感じで心酔してるのかなっと思っていました。でも…どうも監督と選手の関係が思っていたのと違う。試合中はいつも眉間にシワを寄せて怒ってる。なんでできないんだ、っていう気持ちがあったみたいなんです。選手に監督どうなん?って聞いたら「ダメですよ…」みたいに言っている。何を言ってるんだ、世界の王さんだぞって思ったけど、やはり溝があったんですね。もしかしたら王さんの求めるレベルが高すぎたのかもしれない。コミュニケーションがないと信頼関係もできないですよね。

その後、フロントの根本陸夫さんが現場に来るようになって王さんに「自分から選手に近寄っていかないとダメだよ」と話したらしいんです。そこからコミュニケーションを取るようになったと。その年のダイエーは3位に入り、チームも転換期で小久保裕紀、城島健司、松中信彦らが中心になる時期に来てたのかなと思います。

翌年、僕はえらい目に遭いました。2年目は二軍スタート。根本さんがよく来られて僕に付きっきりでブルペンの投球を見てくれていました。再生しようとしてくれていたんでしょう。上に行くために結果を出そうとしていた4月ごろ、おなかがこの世の痛みではないほどの激痛に襲われました。練習にも行けないし、一睡もできないまま救急で国立病院に行ったんです。急性胃腸炎かと思っていたら胆のうに石が引っかかっていると…。即入院です。

そしたら入院中に胆石がコロッと取れて痛みがなくなったんですよ。でもまたあの痛みが来る不安があるし、手術したら時間がかかってクビになるかもしれない。まだ現役をやめる気はないので、僕は手術に踏み切り、40日間も入院したんです。そして入院中、同じ病院に根本さんが運ばれてきて、亡くなられた。病室から一歩も出られなかったので、顔を見に行けず、お葬式にも出れず、つらかったですね。

退院後も一軍には呼ばれず、僕は未勝利のままチームはリーグ優勝。なぜかビールかけには行きましたけど(笑い)。その翌日に球団に呼ばれてクビです。日本シリーズが行われているころ、僕は広島の秋季練習のグラウンドにいました。

☆やまさき・しんたろう 1966年5月19日生まれ。和歌山県新宮市出身。新宮高から84年のドラフト3位で近鉄入団。87年に一軍初登板初勝利。88年はローテ入りして13勝をマーク。10月18日のロッテ戦に勝利し「10・19」に望みをつないだ。翌89年も9勝してリーグ優勝に貢献。95年には開幕投手を務めて近鉄の実質エースとなり、10勝をマークした。98年にダイエーにFA移籍。広島、オリックスと渡り歩き、2002年を最後に引退した。その後は天理大学、天理高校の臨時コーチや少年野球の指導にあたり、スポーツ専門チャンネル「Jスポーツ」の解説も務めている。

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