〝忘れ物の名人〟長嶋茂雄に帽子を差し出した田中耕一郎の青春

巨人時代の田中さん(東スポWeb)

【越智正典 ネット裏】田中耕一郎は1962年、ドラフト以前、スカウト自由競争時代に日向学院から巨人軍に入団した左腕投手である。キレのいい球に着目し、獲得したのは復員後、意気込みの二軍監督。51年、明石キャンプ初日は吹雪だったが、先頭を走り二軍選手を引っ張っていたのは内堀保。内堀はこのときは巨人のスカウトで、田中にとっても九州の大先輩である。

巨人軍初代主将、捕手久慈次郎(盛岡中学、早大、函館オーシャンズ)が35年の巨人軍渡米遠征を前に、前の年の大火に苦しむ函館の人を見捨てて乗船することは出来ません…悲痛な思いで退団した。

巨人も久慈の思いに心打たれたが、キャッチャーは倉信雄(第一神港商業、法政大学、日満実業)ひとりだけになった。いうまでもなく捕手はケガが多いポジションである。捕手ひとりでは北米大陸転戦は不可能である。享栄商業の捕手中山武と長崎商業の捕手内堀保を緊急補強した。中山は卒業出来たが、内堀は「野球統制令」を適用されて卒業出来なかった。巨人が秩父丸で横浜を発ったのは2月14日だった。

内堀は野球用具と重いボール袋をかついで転戦した。みやげは泊まったホテルのステッカーだった。

晩年、内堀は夕暮れが近づくと目黒区碑文谷のお住まいの縁側で、居間の文箱に大事に納まっているステッカーを取り出して眺めていた。辛苦のあゆみを回想していたが、決まって「沢村(栄治)さんは凄かったなあー」と呟いて回想を結んでいた。

田中耕一郎が巨人の多摩川寮に着いたのは18歳。寮長武宮敏明はこの若者の幼顔にあどけなさを見た。「東松原(世田谷区)に伯母さんがおられるそうだな。これから伯母さんちに行って、伯母さんによーく頼んで1か月ほど置いてもらえ。寮に入るのはそれからでいい」。

武宮は熱血の指導者としてよく知られているが、本来、情愛の寮長である。田中は「武宮さんのおかげでいじめに遭いませんでした」といまでも感謝している。

巨人在団4年、帰郷。実家は宮崎の老舗、大きな酒店。父親の耕蔵さんが言った。「店を手伝わんでよい。毎日、新聞や本を読みなさい」。世の中に出る準備である。立派なおとうさんである。彼はいまでも図書館に通っている。

風のたよりだが、耕一郎投手はこのごろはホントに淋しそうなのだそうだ。バッティングピッチャーで一軍練習に手伝いに行くと、忘れものの“名人”長嶋茂雄がときどき帽子をかぶってくるのを忘れる。耕一郎がさっと自分の帽子を脱いで差し出す。サイズが同じなのだ。これも“殊勲”である。

65年11月3日、後楽園球場での南海との日本シリーズ第3戦。長嶋茂雄は彼の帽子をかぶって颯と三塁に向かった。その初回の裏、長嶋茂雄は先制ホームランをかっとばした。内堀保も武宮敏明も仲間も泉下である。彼はV9巨人軍を語り合いたいのである。 =敬称略=

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