【仲田幸司コラム】親父に希望球団を伝えたら裏でとんでもないことに…

高校3年夏の投球フォーム

【泥だらけのサウスポー Be Mike(16)】 最後の夏、最後の甲子園。戦い終えた球児の姿に感動を覚えるファンは少なくないでしょう。

僕も最後の夏、広島商に負けた瞬間は悔しさにまみれました。でも、この夏は不思議な感覚でした。

2年の夏は3年生がいました。もちろん、負けて悔しかったですが、まだ薄かったような気がします。でも自分が3年の春、センバツでサヨナラ負けした時には、僕は試合後のインタビューで号泣しています。

大阪・毎日放送の結城哲郎アナウンサーに「残念でした…」と振られると、僕は「同情はいりません」と涙ながらに言葉を絞り出しました。その時の悔しさがあったからこそ、最後の夏にかけた思いがあったわけです。

僕はプロ野球を引退後、結城アナと阪神戦のラジオ実況で一緒に仕事をしています。その時に僕の高校時代のインタビューの様子を改めて聞いています。それだけの思いで臨んだ最後の甲子園。もう戻ってくることはないのに…。悔いが残るというより、これで終わりなんだというスッキリした気持ちになっていました。

当時は上級生からの体罰なんかもあった時代です。殴る蹴るもまだありました。酷暑の中での練習で水も飲めなかったりという生活からの解放感がありました。

あの、きつい練習もせんでいい。グラウンドにも行かなくていい。ゆっくりできる。しばらくは野球のことも考えなくてもいい。

心の奥にはこの後もプロに入って野球をやれるという気持ちもありました。とりあえずは一段落。そんなところでしょう。

でも、さすがに最後の試合が終わって2、3日後くらいだったかな。体がムズムズし始めて野球がやりたくなるわけです。プロという次の目標が頭をよぎってくるわけです。

高校野球は終わりましたが、後輩たちと一緒に練習するため野球部に戻って鍛錬の日々です。

このころ、僕の体は大きくなり始めていました。入学時には165センチほどしかなかったんですが、高校卒業のころには178センチ(甲子園のプロフィルでは182センチと申告)になっていました。プロに入って183センチまで伸びました。

僕が鍛錬に励む中、自宅や学校にプロの関係者の方々があいさつに来られました。12球団来られたと思います。そんな中、親父は僕に意思確認してきました。

僕はもう大学社会人は考えていない。もう絶対にプロに行くと答えていました。すると、親父は希望球団はあるのかと聞いてくる。僕はとにかくどこでも野球するのは一緒やから、どこでも行くと伝えました。

でも、親父は希望を言えとしつこかったんです。じゃあ、パ・リーグよりはセ・リーグ。セ・リーグなら沖縄でも全国放送で放映される巨人かなと伝えたわけですが、裏ではとんでもないことになっていました。

これはドラフトが終わった後で分かった話なんですけど、親父が僕をおもんぱかって巨人以外の11球団に「指名しないでほしい」と手紙を出していたんです。さらには、日帰りで東京へ行き「指名してください」という手紙を直々に当時の巨人・王監督に持っていったらしいんです。これは親父に聞いた話なので、僕は見ていませんが。

ドラフト前にはすでに僕が「巨人逆指名」みたいになっていました。でも、僕は何も分かってない状態です。そんな中、ドラフト前日に事態は動きを見せました。

☆なかだ・こうじ 1964年6月16日、米国・ネバダ州生まれ。幼少時に沖縄に移住。米軍基地内の学校から那覇市内の小学校に転校後、小学2年で野球に出会う。興南高校で投手として3度、甲子園に出場。83年ドラフト3位で阪神入団。92年は14勝でエースとして活躍。95年オフにFA権を行使しロッテに移籍。97年限りで現役を引退した。引退後は関西を中心に評論家、タレントとして活動。2010年から山河企画に勤務の傍ら、社会人野球京都ジャスティス投手コーチを務める。NPB通算57勝99敗4セーブ、防御率4.06。

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