【仲田幸司コラム】巨人スカウトに呼ばれ上京…やられた!!

巨人のドラフト1位指名は池田・水野だった

【泥だらけのサウスポー Be Mike(17)】高校最後の夏の甲子園も終わり、僕は次の目標へ向かって準備を整えていました。夢でもあったプロへの道です。12球団どこでもよかったのに、ドラフト前には「巨人逆指名」と報道され戸惑う自分もいました。

ドラフト前日、学校が終わって帰宅すると親父が待っていました。午後2時半くらいだったでしょうか。「1泊分の荷物を用意しておけ」と言われ、タクシーを予約して慌ただしく空港へ向かいました。

親父、どこ行くの? 僕が問うと「今から東京へ行く」との返事。何しに東京? そう聞くと「巨人のスカウトに呼ばれとる」とのこと。僕からしたら「えええーーーっ?」って話ですよ。

で、東京に行ったら名前は言えませんがスカウトの方がいらしてました。そのころには「仲田巨人逆指名」という報道も出ていた。でも、まさか裏で親父が動いているなんて知らなかったわけですよ。僕は巨人に行けるんだと少し思ったのを覚えています。

その日、巨人スカウトの方は「ホテルを用意しております。今日はゆっくりしてください」ということで帰られました。

そして、ドラフト当日です。そのスカウトは朝も来てくれました。「今からドラフトへ行ってきます。1位は池田の水野でいく。それ以降に指名しますから待っていてください」と言って去って行きました。

フタを開ければ巨人からは2位でも指名なし。3位で阪神と南海が指名してくれました。それで抽選になって阪神がクジを引いてくれました。

僕はあこがれだった甲子園が本拠地の阪神だし、ええやんかと喜んでました。でも、親父は「マイクちょっと聞け。俺は一番行ってほしくない球団が阪神なんだ。あんないつもゴタゴタするチームにお前を入れるわけにはいかん」と反対していました。

情報も何も少ない時代でした。まして沖縄で阪神の情報なんてない。OBの江本孟紀さんが出された本くらいしか阪神ネタはないわけですよ。それで、阪神に行くなと親父に言われましてね。

ドラフトが終わりました。ホテルのフロントに行って親父が「巨人の方から(帰りの飛行機の)チケットを預かっていると思うんですけど」と問い合わせると「預かってません」との回答。「宿泊代は?」と確認すると「いただいておりません」とのことでした。

沖縄から片道切符で呼び出されただけだったわけです。やられましたね。もちろん、ホテル代も帰りの飛行機代も自腹です。ご縁がなければ関係ない。今思えばひどい話です。

東京は東京で大変でしたが、そのころ沖縄でも大変なことになっていました。ドラフト候補選手が当日に学校にいなかったわけですから。親父と僕が東京に行っていることなんて誰も知りません。まさに現場はパニックです。

親父も僕も学校にはドラフト当日に欠席しますと届けを出していませんでした。体調が悪い、親戚の法事など、学校を休む連絡をしておけばまだよかったのですが、それを一切せずに東京に飛んでしまっていたわけです。

僕はすでにドラフト指名を確実視されていた選手でした。ドラフト当日の学校にはテレビ、新聞などマスコミ各社の記者やカメラマンの方々がみんな集まっていました。「巨人逆指名」と報道されていた張本人の仲田がいないわけです。そりゃ、皆さん待っていますよね。

ドラフトにかかったら野球部全員で胴上げとか、そんな映像を撮りたかったはずです。翌日の新聞を見てみると「仲田雲隠れ」という見出しで報道されていました。これは昔の新聞を調べていただけば掲載されているはずなので事実と分かります。

かくして、僕は阪神タイガースの一員となりプロへの一歩を踏み出すことになります。

☆なかだ・こうじ 1964年6月16日、米国・ネバダ州生まれ。幼少時に沖縄に移住。米軍基地内の学校から那覇市内の小学校に転校後、小学2年で野球に出会う。興南高校で投手として3度、甲子園に出場。83年ドラフト3位で阪神入団。92年は14勝でエースとして活躍。95年オフにFA権を行使しロッテに移籍。97年限りで現役を引退した。引退後は関西を中心に評論家、タレントとして活動。2010年から山河企画に勤務の傍ら、社会人野球京都ジャスティス投手コーチを務める。NPB通算57勝99敗4セーブ、防御率4.06。

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