【仲田幸司コラム】優勝争いをしていたヤクルト・古田と球宴でバッテリーを組むことに

【泥だらけのサウスポー Be Mike(28)】1勝に終わった1991年、僕はクビを覚悟しました。崖っ縁を味わうと、何とかせねばと必死になります。シーズン後の秋季キャンプではスライダー、スクリューボールを習得しました。

キャンプ、オープン戦と好調でそのままシーズンに入ることができました。前半戦だけで9勝を挙げ、キャリア唯一のオールスターに監督推薦で出場させていただきました。

7月18日の第1戦は甲子園で開催されました。阪神の本拠地です。地元開催であり自分が先発することは分かっていました。

パ・リーグの先発はあのメジャーリーガー、近鉄時代の野茂英雄です。そういう華やかな舞台で3回無失点5奪三振の結果を残し、僕も優秀選手賞に選出していただきました。

MVPは近鉄の主砲・石井浩郎。優秀選手賞は近鉄・野茂、ヤクルト・池山隆寛、西武・田辺徳雄の面々で、僕も並んで撮影してもらった写真は壮観そのものです。

僕にとって初出場の球宴だったとはいっても、緊張するとか浮足立つことはなかったです。その時点でもう9年目でしたからね。

ヤクルトの古田敦也、池山、中日・山本昌も昭和40年会の仲間ですし余裕を持ってベンチに座ることができました。どちらかというと他球団からの選出選手も年下の方が多くて、質問するよりされる方が多かったですね。

そういえば、この球宴は92年です。プロ野球のお祭りの中にもヤクルトと阪神の戦いがありました。試合でバッテリーを組んだのはヤクルト・古田と阪神・仲田です。チーム同士としてはレギュラーシーズンで優勝争いをしているわけですから、お祭りの中でも腹の探り合いですよ。

古田がカウント、シチュエーションによっていろんな球種のサインを出してきました。直球、スライダー、スクリュー、カーブ。でも僕はあえて、これらのサインに1球も首を振らずに投げました。

首を振ると、こういうカウントで仲田はこの球種を投げたがる、あるいは投げたがらないという傾向があるなど、データを収集される可能性があるわけですよ。古田はヤクルトの司令塔ですから、ヒントを与えるわけにはいきませんからね。手の内がバレちゃいかんですから。

オールスターだから和気あいあいとはやっていましたよ。でも、心の奥底では戦いがある。顔は笑って心は探り合い。プロだから当然の話です。

プロ野球40年会の仲間も同じ考えだと思います。わかりあっているからこそ、笑っていられる。暗黙の了解ですよ。アラサーのプロ野球選手ともなれば、そういう世界と理解しています。

あの当時、年末になると関西テレビ(フジテレビ系)でプロ野球40年会という正月番組の収録がありました。昭和40年生まれの学年で集まって親睦を深めるのですが、みんな野球の話はほとんどしませんからね。そら、食うか食われるかの世界ですよ。

92年は優勝争いも相まっていろんなドラマがありました。次回はあのシーズンに飛び出した幻のサヨナラホームランについてお話ししたいと思います。

☆なかだ・こうじ 1964年6月16日、米国・ネバダ州生まれ。幼少時に沖縄に移住。米軍基地内の学校から那覇市内の小学校に転校後、小学2年で野球に出会う。興南高校で投手として3度、甲子園に出場。83年ドラフト3位で阪神入団。92年は14勝でエースとして活躍。95年オフにFA権を行使しロッテに移籍。97年限りで現役を引退した。引退後は関西を中心に評論家、タレントとして活動。2010年から山河企画に勤務の傍ら、社会人野球京都ジャスティス投手コーチを務める。NPB通算57勝99敗4セーブ、防御率4.06。

© 株式会社東京スポーツ新聞社