【泥だらけのサウスポー Be Mike(32)】1992年の激闘の疲れが出たのか93年は3勝12敗と失速。前年、躍進したチームは4位とBクラス逆戻りでした。
続く94年は中村監督5年目のシーズンです。打線ではメジャー通算220本塁打のロブ・ディアーを獲得。FAでオリックスから石嶺和彦さんを補強し、チーム強化を進めていました。
ドラフト1位の藪恵壹が9勝で新人王。オリックスからトレード移籍の古溝克之さんは7勝18セーブと活躍されました。僕自身は7勝6敗で防御率4・15。それでもチームは62勝68敗の4位に終わりました。
30歳になったこのシーズン、自分ではこのころから実力に陰りが出始めていたように感じていました。ストレートの球速も落ちてきていたんじゃないでしょうか。
やっぱりピッチングが自分の思い通りにいかなくなり始めている感はありましたね。
95年に入ると急激に出場機会が減りました。わずか9試合(先発4)で0勝2敗、防御率9・56です。チームも4年ぶりの最下位に沈みました。
中村監督がシーズン途中で休養し、藤田平二軍監督が後半戦から監督代行として指揮を執りました。二軍監督には野田征稔さんが就任されました。
このあたりから一気にベテラン選手が隅に追いやられていく空気が、チーム内に広がったのを覚えています。
チームが低迷しているわけですから若返りを図る。ベテランに代えてチャンスを与える。普通のことなのですが、その中で実際にベテランとして存在するのはつらいものです。
「まだ、球場に来ているの?」。ファームでくすぶっている時に、そんなきついジョークを言われると心にグサッと刺さります。受け流すことができず、朝からブチギレてグラブを放り投げて帰ったこともありました。
もう、のけ者扱いなのか。もう頭がプッツンきて、こんな球団出ていってやるという気持ちにもなりました。92年の活躍はわずか3年前のことです。あそこまで身を削って投げたのに、しょせん俺らは消耗品なのか。使い捨てかよ。いろんな思いが去来します。
最新のエアコンが家に届けば、さびた扇風機には誰も見向きもしません。それが仕方ないのも理解はしていたつもりです。
それでも、一軍である程度やってきたという思いがありました。タイガースというチームに尽くしてきた自負もありました。入団してから少しずつ積み重ねてきたことへの思い入れも、もちろんありました。
若いころのような直球の威力はなくても、もう少しここをこうしたら良くなるのではないか。そういう向上心をなくしてはいませんでした。
それでも、いろんな気持ちが胸中に渦巻いていました。自分への評価を確かめたい。その気持ちで取得していたフリーエージェントの権利を行使しようと考えました。FA宣言をした上で、球団からの率直な評価を聞いて阪神に残留する考えでした。
95年の成績は確かに良くなかったです。96年も球団が契約してくれるのであれば、もちろん阪神でプレーするのが一番の選択肢でした。そのつもりで契約更改に臨みました。
もちろん、球団とモメるつもりなんてありませんでした。でも、窓際に追いやられたような気持ちで過ごした95年シーズン。心が傷ついていたんでしょう。FA宣言した僕への球団のリアクションは、思いもよらないものでした。
☆なかだ・こうじ 1964年6月16日、米国・ネバダ州生まれ。幼少時に沖縄に移住。米軍基地内の学校から那覇市内の小学校に転校後、小学2年で野球に出会う。興南高校で投手として3度、甲子園に出場。83年ドラフト3位で阪神入団。92年は14勝でエースとして活躍。95年オフにFA権を行使しロッテに移籍。97年限りで現役を引退した。引退後は関西を中心に評論家、タレントとして活動。2010年から山河企画に勤務の傍ら、社会人野球京都ジャスティス投手コーチを務める。NPB通算57勝99敗4セーブ、防御率4.06。