苦難の歴史二度と 土呂久鉱害告発50年

1973(昭和48)年11月、宮崎市の宮崎西中であった県教組の集会で土呂久ヒ素鉱害の実態を説明する岩戸小教諭(当時)の齋藤正健さん。「苦しんでいる住民がまだまだいる」と、告発以降、患者救済へ熱のこもった訴えを続けた

 元岩戸小教諭の齋藤正健さん(78)=国富町木脇=は、28歳の新米教師だった1971(昭和46)年11月13日、宮崎市の小戸小であった県教育研究集会で土呂久ヒ素鉱害を告発した。「埋もれていた健康被害を掘り起こした」「土呂久の歴史を教材に」…。記憶の風化が進む中、告発から50年の節目を迎え、地元住民や関係者からは改めて、鉱害の意義や教訓を問い直す声が相次いだ。
 齋藤さんは児童の体力が低かったことなどから、教員仲間と集落を調査し、100人近くが平均39歳で亡くなっていることを突き止めた。鉱害で家族や親戚を何人も亡くした土呂久・南地区の佐藤ツルさん(81)は「夜な夜な齋藤先生が原付きバイクで集落を回って調査していた姿を今も思い出す。告発から土呂久は良い方向へ向かい、救われた」と感謝する。

© 株式会社宮崎日日新聞社