【仲田幸司コラム】ロッテが花道を用意してくれたが…娘のひと言で最後の挑戦決意

ロッテ時代の投球フォーム(東スポWeb)

【泥だらけのサウスポー Be Mike(34)】1995年オフにFA宣言してロッテに移籍しました。愛着のあった阪神への思いを抱えつつ、複雑な心境でケンカ別れのようにチームを去る形となってしまいました。

自分の気持ちは相手打者と戦うという感じではなかったです。野球で結果を出して阪神を見返してやろうという感情でもありません。

何とかしたいと思っても、心と体が空回りするような、何とも言えない感覚のままロッテでプレーしていました。

当時は家族も一緒に関東に移住して都内に居を構えました。子供の学校の準備など、突然の移籍に伴い家族には相当な負担をかけました。

当時の妻は大阪出身で関東には友人、知人もほぼいなかったと思います。思い起こせば大変な苦労をかけてしまったなと思います。

野球の方はというと波に乗れない状態でした。移籍1年目の96年は9試合の登板で0勝1敗、防御率6・23。FA移籍した投手の成績としては寂しい数字です。

翌97年はファームで調整中に首脳陣からある打診がありました。

山本功児二軍監督(元ロッテ監督、巨人、ロッテOB)から「上(一軍)から言われているんだが、先発では起用しづらいので、左のワンポイントで使えるなら一軍で使いたいということなんだ。サイドで投げられないか」と相談されました。

簡単に身についているフォームを捨てるわけにもいかず、最初はお断りを入れました。でも、山本さんから「このままマイクのこういう姿を見ているのは俺もつらい。トライしてみてしっくりこなければ戻せばいい」と促され挑戦してみました。

違和感しかなかったですが試行錯誤でサイドスローを試みました。でも、自分ではサイドのつもりだけど、リリースの瞬間は手首が立って上からになってしまうんです。

周りからは「詐欺投法」とイジられました。それでも二軍では抑えて、少しだけ一軍で投げさしてもらいました。でも、通用はしなかったですね。

この97年が結果的に現役最後のシーズンになるんですが、ファームでは不思議なご縁で同級生と時間を共有できました。

昭和40年会の仲間、津野浩(元日本ハム、広島)、与田剛(前中日監督)の2人です。96、97年の2年間、お互いに励ましながらロッテでお世話になりました。

3人ともチームにはなかなか貢献できませんでした。もちろん、もう経験していますから、今季限り(で退団)だなというのは3人とも空気で分かります。

そんな中、山本二軍監督が僕たちに気を使ってくださいました。イースタン・リーグの最終戦です。確か浦和球場での巨人戦だったと思います。

前日に同級生3人で監督室に呼ばれて「お前ら3人よう頑張ってきたな。明日は3人で試合を締めてくれ。マイクは先発、次は津野、最後は与田や」と言われたんです。

実際に僕が先発し5回、津野が3回、守護神・与田が1回を投げて試合にも勝利し、花道をつくってもらいました。

試合終了後に山本二軍監督から「ホンマにご苦労さんやった」と肩を叩いてもらいました。山本さんからの野球人として配慮、贈り物でした。

もう引退やな。自分の中でもそう思っていました。家族も分かっていたと思います。お疲れさまという言葉をもらって終わりかと思っていました。でも、娘のひと言で一転します。僕はもう一度だけグラブを持って挑戦する道を選びました。

☆なかだ・こうじ 1964年6月16日、米国・ネバダ州生まれ。幼少時に沖縄に移住。米軍基地内の学校から那覇市内の小学校に転校後、小学2年で野球に出会う。興南高校で投手として3度、甲子園に出場。83年ドラフト3位で阪神入団。92年は14勝でエースとして活躍。95年オフにFA権を行使しロッテに移籍。97年限りで現役を引退した。引退後は関西を中心に評論家、タレントとして活動。2010年から山河企画に勤務の傍ら、社会人野球京都ジャスティス投手コーチを務める。NPB通算57勝99敗4セーブ、防御率4.06。

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