【久保康生コラム】「大塚晶文」私の助言が機能してくれたことがコーチとしてのルーツに

近鉄時代の大塚(東スポWeb)

【久保康生 魔改造の手腕(1)】現役時代は近鉄と阪神で21年間、投手として活躍。ただ、その後の野球人生はそれよりも長かった。引退後は指導者として1998年から2020年まで23年間にわたり後進を指導。その手腕で輝きを放った名投手は数えきれない。才能を見いだし、開花させるプロ。昨季までソフトバンクでコーチを務めた久保康生氏(63)に、その引き出しの一部を語ってもらった。

私が指導者として生きていく、最初のきっかけになったのは97年2月の近鉄・サイパンキャンプでの大塚晶文(元近鉄、パドレスなど、現中日投手コーチ)との出会いでした。

その当時、私は39歳になる年齢でまだ現役としてユニホームを着ていました。前年の96年に佐々木恭介監督から呼ばれて、阪神から近鉄に帰ってきて2年目というタイミングでした。

その97年のサイパンキャンプで出会ったのが、当時はまだルーキーだった大塚晶文です。

キャンプで練習メニューをこなす際、同じグループではなかったんですが、遠目に大塚のキャッチボールなどを見させてもらっていました。

印象としては、なかなかペースが上がってこないなあという感覚です。

その後、体操、ストレッチをしている時に近くに座ったこともあり、初めて声をかけたんです。

「肩、あまり良くないんじゃないの?」というふうにね。

すると「実は何年か前に肩の後ろの方の大きな筋肉の断裂で手術を経験しています」と言うんです。その影響もあったのかと納得しました。

テークバックから、リリースポイントに持ってきて、ボールを前でリリースするまでに、叩く、さばくというプロセスがあまりにも悪かったんです。

それではいつまでたっても肩はできてこないし、まともに投げられるようなフォームにはならないと思うよと、話をしたんです。

その時はいきなり話しかけて、そういう話題を投げかけたんですが、大塚は私に興味を持ってくれたようでした。その日の帰りのバスも同じで、少し話をして。私もまだ現役でしたし、大塚としても相談しやすい相手だと思ってくれたんだと思います。

バスを降りて、宿舎のホテルのエレベーターの中で大塚から「(キャンプの)後半にちょっと、しっかりと話を聞かせてもらえませんか」と言ってきて、私は快諾しました。

その日はサイパンキャンプの最終日だったんですね。当時、近鉄はサイパンの1次キャンプと宮崎・日向での2次キャンプを行っていました。

キャンプ前半の最終日になってもペースが上がらず、大塚も危惧していたんでしょう。ちょうど悩んでいたころだったでしょうし、話しかけたタイミングも良かったんですね。

その流れから日向キャンプでは、どちらにせよ私自身も同じ練習をするんだから一緒にやろうと話をしました。短い距離でのネットピッチを、これだからダメなんだ、こうしなきゃいけないという具合に繰り返しましたね。

ずいぶん、しっかり繰り返しましたよ。それから土台を作った上で実際の投球へと移っていったんです。

そうしたらどれぐらいだったでしょう。10日くらい経過したころかな。投球練習をするグループが違ったので、投げる姿を見てなかったんですが、練習終わりにブルペンのドアからのぞいてみると、大塚は見違える姿になっていたんです。

私から見てもすごい球を投げていたんです。そんなたった10日ほどで。助言したことを急速に理解してくれて、激変してくれていたんです。

思い起こせばここが指導者としての始まりだったんでしょう。そのころは兼任コーチでもなく、現役投手だったんですが。大塚への助言が機能してくれたことが、私の投手コーチとしてのルーツということになります。

☆くぼ・やすお 1958年4月8日、福岡県生まれ。柳川商高では2年の選抜、3年の夏に甲子園を経験。76年近鉄のドラフト1位でプロ入りした。80年にプロ初勝利を挙げるなど8勝3セーブでリーグ優勝に貢献。82年は自己最多の12勝をマーク。88年途中に阪神へ移籍。96年、近鉄に復帰し97年限りで現役引退。その後は近鉄、阪神、ソフトバンク、韓国・斗山で投手コーチを務めた。元MLBの大塚晶文、岩隈久志らを育成した手腕は球界では評判。現在は大和高田クラブのアドバイザーを務める。NPB通算71勝62敗30セーブ、防御率4.32。

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