【仲田幸司コラム】阪神入団テスト「内定」一転・・・合格したのは遠山

阪神の入団テストは遠山(右)も受けていた(東スポWeb)

【泥だらけのサウスポー Be Mike(35)】1997年の秋、FAで移籍したロッテから戦力外通告を受けました。在籍期間は2年。ロッテ球団、ファンに恩返しできず申し訳なかったです。

自分の中では「引退」の2文字を意識しました。そのつもりで家族に報告しました。でも、娘からの「パパの投げている姿をもう一度見たい」というひと言で、心に火がつきました。

阪神時代はまだ幼くて、僕が先発した試合を観戦してもすぐに飽きて帰っていた娘。それが小学生になり野球に興味を持ってくれた。

僕のFAを「紙切れ」と表現した球団フロントの方も、退団されていたこともあり、阪神の入団テストを受けることになりました。

テスト期間は3日間。僕は最終日まで残ることができました。実は2日目の夜には「内定」をいただいており、あとは正式な返事を待つだけという状態でした。
ところがです。結論から言いますと、最終的に合格したのは阪神時代からの後輩、遠山昭治(現浪速高野球部監督)でした。

遠山は当時、ロッテに野手として在籍。僕と同じタイミングで戦力外となっていました。現役続行を希望し同じテストを受験していたわけです。

打者としては不合格でした。ところが、テスト最終日にどんでん返しが起こりました。当時の吉田監督、一枝ヘッドコーチが遠山を投手として見たいと希望し、ブルペンで投球することになりました。

その最終日、僕も遠山と並んで一緒に投げました。何となく空気でわかりました。どうも注目が遠山にいっているなと。即席で作ったサイドスローの僕より、野手転向の期間に肩を休められていた遠山の評価の方が高かったのでしょう。

テスト終了後に1人ずつ部屋に呼ばれ合否を告げられました。呼ばれる順番も決まっていたのですが、僕はマネジャーから「一枝さんから話があるので最後に来てくれ」と告げられました。

僕の気持ちの中ではもう、内定をもらっているので余裕がありました。

遠山が部屋から出てきた時には、元同僚として「どうやった?」と聞きました。今思えば、その時の気まずそうな、言葉を濁した様子に嫌な予感もあったのですが…。

そして最後に呼ばれ、部屋に入りました。一枝さんが「マイクそこに座れ」と促し「悪いけど遠山を獲ることになった」と告げられました。

ショックどころじゃない。後ろからガツンと殴られたように、頭は真っ白です。前日まで僕を獲ってくれると言っていたのに。

「マイクは外から野球の勉強をしろ。お前は解説。遠山はユニホーム。遠山も生きるしお前も生きる」

一枝さんは阪神で育った2人のことを両方とも配慮してくれたわけです。

あの当時はショックでした。一部スポーツ紙には「仲田、阪神復帰確定」と書いてきたところもありましたからね。

当時の様子を関西テレビ(フジテレビ系)さんが密着取材で追いかけてくれていました。合格の喜びの声を聞こうと球場近くのホテルでインタビューも用意されていました。

でも、僕は不合格です。娘にユニホーム姿を見せてあげることができる。その確信があったのに、できない悔しさでカメラの前で号泣してしまいました。

ここで僕が合格していたら、その後に野村監督が編み出した「遠山、葛西、遠山」の継投は生まれなかったんですよ。

だからといって「マイク、葛西、マイク」もなかったでしょうね。

こうした経緯を経て、僕は大阪毎日放送(TBS系)の解説者となりました。

☆なかだ・こうじ 1964年6月16日、米国・ネバダ州生まれ。幼少時に沖縄に移住。米軍基地内の学校から那覇市内の小学校に転校後、小学2年で野球に出会う。興南高校で投手として3度、甲子園に出場。83年ドラフト3位で阪神入団。92年は14勝でエースとして活躍。95年オフにFA権を行使しロッテに移籍。97年限りで現役を引退した。引退後は関西を中心に評論家、タレントとして活動。2010年から山河企画に勤務の傍ら、社会人野球京都ジャスティス投手コーチを務める。NPB通算57勝99敗4セーブ、防御率4.06。

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