原爆投下前の「浦上刑務支所」 爆心地周辺の貴重な写真見つかる

戦前の1925年から33年の間に撮影されたとみられる浦上地区の俯瞰写真。右上に浦上天主堂、中央左上に浦上刑務支所の建物が写る。中央は現在、長崎市民総合プールがある松山町一帯で民家が立ち並び、右下に簗橋が架かる(堀田さん提供)

 長崎原爆の爆心地から約300メートルに位置し、爆風と火災により全壊した「長崎刑務所浦上刑務支所」を撮影した戦前の写真3枚が29日までに見つかった。1枚は浦上地区を俯瞰(ふかん)した写真で、浦上天主堂や松山町一帯の民家など戦前の様子が分かる。市被爆継承課の奥野正太郎学芸員(36)は「地上から撮影した原爆投下前の爆心地周辺の写真は極めて少なく、貴重だ」と話す。
 写真3枚は絵はがきになっており、昨年末、ネットオークションで出品されているのを被爆者で長崎平和推進協会の写真資料調査部会の堀田武弘さん(80)=西彼長与町=が見つけ、落札した。近く長崎原爆資料館に寄贈する予定。
 奥野学芸員によると、浦上刑務支所を含む浦上地区を俯瞰した写真は、現在の長崎市立城山小の高台から撮影したと推測される。戦前の長崎は三菱の軍需工場など軍施設が密集し、当時の要塞(ようさい)地帯法で、砲台などを結んだ線から約10.5キロ以内では要塞司令官の許可なしに測量や写真撮影、スケッチなどが禁止、制限されていた。そのため、戦前の写真は極めて少ない。
 撮影時期は、1925年に建てられた浦上天主堂の双塔が確認でき、33年に大橋営業所まで延伸された長崎電気軌道の架線が確認できないことを踏まえ、25年から33年の間と推測される。要塞地帯法により、敵国に地形や砲台の位置を推察されないよう、奥の山の一部が人為的に切り取られている。
 残りの2枚は、浦上刑務支所の外観と支所内を写した写真。浦上刑務支所の建築概要をまとめたカードも付いており、29年3月の完工を記念して製作し、関係者に配ったとみられる。3枚全て撮影者は不明。
 奥野学芸員は写真について、「原爆被爆のみならず、長崎や浦上の歴史を考えていく上で貴重な資料」と指摘。現在の長崎刑務所(諫早市)の関雅義所長は浦上刑務支所の外観の写真はあるが、内装や遠方からの写真は「原爆で燃えていてほとんどなく、所内でも保存されていない」と話した。


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