【久保康生コラム】炭鉱で栄えた町の裕福な家庭で育まれた感性

炭鉱の町で伸び伸びと育った(東スポWeb)

【久保康生 魔改造の手腕(5)】 私が生まれ育ったのは福岡県の嘉穂郡穂波町(現在の飯塚市)というところです。筑豊炭田があり大変活気のある街でした。

作家・五木寛之さんの代表作でもある「青春の門」の舞台にもなった土地です。景気が良い時代でもあり、故郷としてはワクワクする面白い場所でした。

炭鉱があるため、たくさんの人々が集まります。その影響もあったのでしょう。多種多様な文化が混在した街でした。「飯塚には一番おいしいものが集まる」とも言われていました。その一方で自然も豊かで、四季を感じながら遊び回る幼少期を過ごしていました。

私自身、体も大きくてガキ大将的な存在でしたね。たくさんの友人を引き連れて、自宅に招き入れたものです。家族も「みんなでご飯を食べて、泊まっていけ」というような豪快な気質でした。

広い座敷があり、そこから庭が見えて、池があって、そこの鯉を私が釣るみたいなね。

実家は商売をしていて生活は豊かでした。従業員の方もいましたし、家にはお手伝いさんもいました。仕事柄、皆さんあいさつがきちっとできて、愛想が良く子供の私にとっていい環境でした。

自宅の横に煮豆の工場があって、飯塚の市場では乾物屋を営んでいました。家業は忙しかったはずですが、家族はいつも一緒で寂しい思いをしたことはありません。

気持ちが大きくて朗らかでキップがいい。そんな両親に育てられ、自由に山や川を駆け巡り伸び伸びと育ちました。

自宅近くに大将陣という平安期の古戦場があり、最寄りに「天道」という駅がありました。子供ながらに由緒ある名前だなと感じていました。

その近くに一面の炭鉱があって、ボタ山という石炭のカスを積み上げた150メートルほどの山がありました。ずっとくすぶっている真っ黒い山で、真冬でも湯気が上がっていました。

危ないので親には絶対に登るなと言われていました。でも、そう言われると登りたくなる。本当は危ないんですが、芋を持っていって埋めては焼き芋を作ってましたね。

その近くを流れる川が、石炭を洗った水を流しているため本当に真っ黒なんです。今なら環境汚染問題で大ごとでしょうね。墨汁が流れているみたいなんです。

そんな中でも私は泳いでましたねえ。しかも、どこにどんな魚が泳いでいるかまで熟知していました。ナマズやフナがいるんですよ。川から上がると眉毛に石炭のくずがくっついていました。家族から「まさかあの川で泳いどったのか」と驚かれましたね。

当時、飯塚市内中心部にあるハイカラな幼稚園に通わせてもらっていました。兄と姉は寺子屋だったんですけどね(笑い)。両親が営む乾物屋が幼稚園に近い飯塚の市場にあったので、そこまでバスに乗せられて通っていました。

もう私にとっては天国でしたね。市場には欲しいもの、食べたいものが何でもありました。勝手に箱を開けてソーセージを食べて怒られて、次は隣の天ぷら屋さんで芋の天ぷらをもらって…。もうなんかね、市場のスターのようにかわいがってもらいました。

それで、乾物屋の前がちょうど玩具屋さんだったんですよ。もう、そこで新しいプラモデルが出たら勝手に取りに行って、怒られながらも後で代金を支払ってもらってね。

もうワクワクでしたね。箱が長くて大きい戦艦のプラモデルが大好きでした。今思えば、こういった環境からも感性が磨かれていったんだろうなと思います。それと同時に、家族への感謝の気持ちが湧いてきます。

☆くぼ・やすお 1958年4月8日、福岡県生まれ。柳川商高では2年の選抜、3年の夏に甲子園を経験。76年近鉄のドラフト1位でプロ入りした。80年にプロ初勝利を挙げるなど8勝3セーブでリーグ優勝に貢献。82年は自己最多の12勝をマーク。88年途中に阪神へ移籍。96年、近鉄に復帰し97年限りで現役引退。その後は近鉄、阪神、ソフトバンク、韓国・斗山で投手コーチを務めた。元MLBの大塚晶文、岩隈久志らを育成した手腕は球界では評判。現在は大和高田クラブのアドバイザーを務める。NPB通算71勝62敗30セーブ、防御率4.32。

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