「村上春樹を読む」(48) 村上主義者 村上さんのところ・その1

 

 『村上さんのところ』(新潮社)

 この1月中旬から5月中旬まで公開されて、話題となった村上春樹と読者との交流サイト『村上さんのところ』が、7月下旬に刊行されました。

 新潮社の担当者たちによる同書の編集後記によりますと、「初日に500通ぐらいは来るかな」と予想していたそうですが、蓋を開けてみると、なんと半日で「1700通」。質問受付期間の17日間では総計3万7465通も集まってしまったのだそうです。

 『海辺のカフカ』(2002年)刊行時にも、同様の試みがされて『村上春樹編集長 少年カフカ』(2003年)として刊行されていますが、その時には3カ月で計8000通で、まだ「牧歌的」だったと、担当者が語っています。

 短期間で、4万通弱ものメールが寄せられたのは、どこからでも気楽にメールができるスマホ時代の反映が1番の要因のようです。例えば、沖縄の病院の待合室からメールしているという医薬品・営業マンからの質問もありました。

 また、村上春樹という作家の世界的な位置が、この10年の間にさらに大きく変化したということの反映もあるかもしれません。このサイトが開かれることは海外メディアでも報道されました。それゆえ、海外からのメールも非常に多かったことも特徴です。外国語のメールが2530通。9割が英語でしたが、それ以外の中国語、スペイン語、ロシア語、ポルトガル語、トルコ語などのメールも寄せられたそうです。

 私も「村上さんのところ」が公開中は、頻繁に、村上春樹と読者とのやりとりを読んでいたのですが、正直言って、掲載された分を読むだけでもたいへんでした。

 「このような大量のメールを現在進行形でやりとりすることも、僕にとってはひとつの新たな挑戦です。そこでは嵩(かさ)とスピードが重要な要素になります。量が集まって、それで初めて見えてくるものもあります」

 そのように、回答の中でも、村上春樹が書いていますし、同じ趣旨のことを単行本のまえがきでも記しています。そのまえがきによると「読み切るのに、結局三ケ月以上を要しました。でもちゃんと読みましたよ。そして中から3716通を選び、返事のメールを書きました。そこから選ばれた473通のやりとりが、本書に収録されているわけです」とあります。

 さらに「正直言って疲れました。肩は凝るし、目は痛くなるし、三ケ月、他にまったく仕事はできないし、これは参ったなあと思ったけど、まあいったん始めたことなのでしっかりやり通しました。まるで降っても降っても降り止まぬ大雪を、一人でシャベルを持って雪かきしているみたいでした。最後はかなりふらふらでした」と加えています。

 3716通のやりとりをすべて集めた電子ブック『村上さんのところ コンプリート版』も並行して発売されていて、そのコンプリート版によると、メールしてきた人は、下は7歳から、上は84歳まで。文字通りの老若男女だったようです。それにしても、7歳から84歳までが、メールで質問してきたというのはすごいですね。

 単行本『村上さんのところ』の中でも「ずるはしない、全力を尽くす、というのが僕の職業倫理リストのいちばん最初に来ます」とある通りの仕事ぶり。今回のコラム「村上春樹を読む」では、手を抜かないことを信条にしている、このいかにも村上春樹らしい『村上さんのところ』から、印象に残ったやりとりを紹介してみたいと思います。

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 「村上主義」「村上主義者」について。そこから書いてみたいです。

 村上春樹ファンを「ハルキスト」と読んだりすることがありますが、どうも村上春樹本人は「ハルキスト」という語感が「いささかチャラい」と感じているようです。「僕は『村上主義者』というのがいいような気がします」と宣言しています。

 加えて「『あいつは主義者だから』なんていうと、戦前の共産党員みたいでかっこいいですよね。地下にもぐって隠れキリシタンみたいにみんなで『ねじまき鳥クロニクル』を読んだりして」とも書いています。

 この「村上主義(Murakamism)」あるいは「村上主義者(Murakamist)」は、この本の中で繰り返し、村上春樹自身が宣言しています。

 「呼び名は統一しております」と題された回答メールでは「世の中には『村上主義』というものがはっきりと存在します。一種の世界の眺め方です。それをとる、とらないはもちろん個人の自由です。僕はそういうものを誰にも押しつけるつもりはありません。ただそういうものがあるというだけです」と村上春樹は書いています。

 この本の中では、いままでの同種のメール応答集よりも、極めて丁寧に、分かりやすく、読者に回答しているのですが、この「はっきりと存在します」と村上春樹自身が言う「村上主義」については「一種の世界の眺め方」という言葉だけに留まっています。

 『村上さんのところ』の中で、印象に残った言葉をいくつか紹介しながら、私なりに受け取った「村上主義」という「一種の世界の眺め方」とは、どのようなものなのかということに、少しだけ迫れたらと思います。

 まず「『あいつは主義者だから』なんていうと、戦前の共産党員みたいでかっこいいですよね。地下にもぐって隠れキリシタンみたいにみんなで『ねじまき鳥クロニクル』を読んだりして」という部分なのですが、おそらくここで重要なのは、地下にもぐることや隠れることではなくて、そうやってでも、自分の思いを貫くという点なのでしょう。

 「それこそが『村上主義者』の真骨頂」というメールは、大学生の時に、村上春樹の本に出会って以来、本を読むようになり、自分の人間性や考え方が大きく変わったと思っている、現在29歳の男性からの質問に答えたものです。

 その彼の村上春樹への相談は、現在つき合っていて、結婚を考えている彼女のことで(先週、婚約指輪を購入したようです)1つだけ引っかかる点があるので教えてください、というものです。

 その引っかかる点というのは、彼女が村上春樹の本が好きではないということです。「どちらかというと嫌いです」とも加えてあります。

 「実は、さらに困ったことに、彼女の母が『村上春樹なんて、どこがいいのか全然わからない』と言うので、僕も『そうですよね、まったく…』と答えるしかありませんでした。ごめんなさい。こういったことは今後の人生で問題になるのでしょうか」という相談です。

 なんか、ありそうな状況ですね…。これに対する村上春樹の答えは次のようなものです。

 「奥さんと奥さんのお母さんというのは、すごく大事です。よく話を合わせておいた方がいいと思います。『村上春樹なんて、ほんと、かすみたいなやつだよね』とか『あんなやつの本なんて、まったく紙の無駄遣いですよ。社会の恥だ』とか好き放題言ってかまいません。そして陰でこそこそ僕の本を読み続けてください。それこそが『村上主義者』の真骨頂です。それでこそ僕の読者です。逆風を糧にして、がんばってね」

 どこか、回答を楽しんでいるかのような、愉快な、いかにも村上春樹的な回答ですね。そのメールに「それこそが『村上主義者』の真骨頂」という題名がついているのです。

 さてこの回答の、一見、意志薄弱そうな男性へのメールのどこが「『村上主義者』の真骨頂」なのかを考えてみましょう。

 それは、今の現実世界にしっかり対応しながら、自分の思いを手放さずに持ち続けて、その先に、現実の世界を、自分の願うほうへ、粘り強く、変えていってほしい…そのような意味が込められた村上春樹の回答なのではないかと、私は思うのです。

 現実社会と妥協することで、自分の中の大切なものを、手放してはいけないということです。その志を持ち続けて、逆風の中を生き、そしていつか逆風の風の元のほうを、変えていってほしいということなのでしょう。「それこそが『村上主義者』の真骨頂」なのだと、思います。

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 丁寧な回答が多いなかで、「呼び名は統一しております」の「村上主義」と同様に、ここまで回答しましたから、その先は自分で考えてくださいというふうに感じられたメールに「善と悪のたたかい」というものがあります。

 その回答は、善と悪の関係、善と悪のバランスについて答えているのですが、そこで村上春樹は「不思議なことかもしれませんが、僕の経験から言いますと、どんな時代でも、悪と善の量のバランスというのはほとんど変わりません。善が比較的多い時代とか、悪が比較的多い時代とか、そういうのはありません。だいたいどの時代でも同じです」とまず述べています。

 そして「でもそれにもかかわらずあなたには、あなたが善であると思うことを真剣に追求する責務があります。だってそうしないと、何かの加減でひょっとして悪が勝ってしまうかもしれないから。僕の言うことがわかりますか? たとえ無駄かもしれないとわかっていても、あなたには善を追求する責務があるのです。考えてみてください」と言っているのです。

 ここにも、私は「村上主義」「村上主義者」の考え方を受け取るのです。

 「どんな時代でも、悪と善の量のバランスというのはほとんど変わりません」。これは村上春樹の「悪」と「善」に対する認識ですが、同時に我々は「善悪は常に共存する」という認識に留まっていたらいけないということを村上春樹は述べているのです。

 別な言葉で言えば、どんな時代でも、悪と善の量のバランスというのは、ほとんど変わりないが、それは、我々が善を真剣に追求するからこそ、悪と善の量のバランスが、ようやく保たれているということでもあると思います。ですから「善悪は常に共存する」という認識だけに留まっていたら、とたんに悪と善の量のバランスは崩れ、全体が悪に傾いてしまうのです。

 だからこそ、「たとえ無駄かもしれないとわかっていても、あなたには善を追求する責務がある」と村上春樹は述べているのでしょう。

 ここにも、現実の世界にしっかり対応しながら、自分の思いを手放さずに持ち続けて、新しい世界を創り出す方向へ粘り強く、生きていきたい…という「村上主義」「村上主義者」的なるものを感じるのです。

 『1Q84』の中で、リーダーが青豆に次のように語ります。

 「この世には絶対的な善もなければ、絶対的な悪もない」「善悪とは静止し固定されたものではなく、常に場所や立場を入れ替え続けるものだ。ひとつの善は次の瞬間には悪に転換するかもしれない。逆もある。ドストエフスキーが『カラマーゾフの兄弟』の中で描いたのもそのような世界の有様だ。重要なのは、動き回る善と悪のバランスを維持しておくことだ。どちらかに傾き過ぎると、現実のモラルを維持することがむずかしくなる。そう、均衡そのものが善なのだ。わたしがバランスをとるために死んでいかなくてはならないというのも、その意味合いにおいてだ」

 この言葉は、コラム「村上春樹を読む」の「リーダーとの対決」「犯罪者の対決・その2」の中でも紹介しましたが、『1Q84』の中で、最も大切な言葉の1つだと私は思っています。この言葉と同じ考え方が、『村上さんのところ』の「善と悪のたたかい」でも記されているということです。

 ですから『1Q84』のリーダーも「この世には絶対的な善もなければ、絶対的な悪もない」という認識だけを述べているのではないのです。この言葉が書かれている章の名前が「均衡そのものが善なのだ」となっているのですから。たとえ無駄かもしれないとわかっていても「善を追求する責務がある」と思っている村上春樹の中から「均衡そのものが善なのだ」という言葉が出てきているのでしょう。

 さらに「悪しき物語に対抗するために」と題された回答では、村上春樹は次のように書いています。

 「悪しき物語に対抗するには、善き物語を立ち上げていくしかないという考えには、今でもまったく変わりはありません。論理に対抗する論理にはどうしても限りがあります。論理対論理は地表の戦いであり、物語対物語は地下の戦いです。地表と地下がシンクロしていくことで、本当の効果が生まれます。自分の物語を、できるだけ「善き物語」(決して倫理的にgoodということではありません)に近づけていきたいというのが、僕の一貫した気持ちです」

 ここでも、自分の物語を「善き物語」に近づけていきたいと述べています。我々には「善を追求する責務がある」と村上春樹が思っているからでしょう。

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 どんな時でも(逆風の中でも)、一貫した気持ちを抱き続けて、「善き物語」を希求し続けるというのが、「村上主義者」の真骨頂です。

 『村上さんのところ』の中で印象に残ったメールから、「村上主義」「村上主義者」とは、どんな特徴を持つのか、そのことを少し考えてみました。

 続けて、いくつかのメールについて述べ、さらに「村上主義」「村上主義者」の姿を考えてみたいのですが、また長い紹介となりそうです。続きは次回の「村上春樹を読む」で記すことにしたいと思います。(共同通信編集委員・小山鉄郎)

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「村上春樹を読む」が『村上春樹クロニクル』と名前を変えて、春陽堂書店から刊行されます。詳しくはこちらから↓

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