180通の履歴書で開いたMLB傘下の日本人監督 ボイラー室に寝泊まりした壮絶過去

ツインズ傘下で監督を務める三好貴士さん(左)【写真:宮脇広久】

「日本野球の取り巻く環境を変えたい」の一念で単身渡米

今季MLBミネソタ・ツインズ傘下のフロリダ・コンプレックスリーグ・ツインズ(ルーキーリーグ)で監督を務めた三好貴士(みよし・たかし)さん。MLB、NPBでの選手経験を一切経ずにMLB傘下で指揮を執った初めての日本人である。その目の前には、日本人初のメジャーリーグ監督への道も開かれている。神奈川の県立高校を卒業後、英会話もおぼつかないまま単身渡米してからの道のりは、波乱万丈だった。

1997年春、18歳にして「メジャーリーガーになってやる」の一念で日本を飛び出した。

高校で所属した野球部は日常的に体罰、しごきがある“超体育会系”。三好さんは疑問を感じ続けていた。監督の命令に対しても「グラウンドの外周を何十周しろ、と言われても、それがどう役に立つのかを説明してくれなければできない。納得できないことはやれませんでした」と振り返る。

「日本野球の取り巻く環境を変えたかった。そのために、何が近道かと考えました。メジャーリーグで選手として活躍すれば、日本に戻って来た時に強い発言権を持てるのではないかと……」。とはいえ、当時は野茂英雄投手が1995年にメジャーデビューを果たしたばかり。野手の日本人メジャーリーガーは歴史上皆無だった。それでも、大志を抱いた青年に迷いはなかった。

アメリカには、日本とは違う何かがあると信じていた。小学生の時、少年野球の神奈川・相模原地区選抜の一員としてハワイへ遠征。「僕らは指導者に怒られながら、歯を食いしばって野球をやっていたけれど、ハワイの子は本当に楽しそうにバットを振っていた。それが衝撃的で記憶に刻まれました」と振り返る。

MLB30球団へ履歴書を通算180通送付、返事は3通

モントリオール・エクスポズ(現ワシントン・ナショナルズ)が米フロリダ州に開設していたアカデミーに入学し、6か月を過ごしたことが出発点。そこでスカウトされ、ニュージャージー州の短大に進学した。卒業後、カナダ独立リーグのロンドン・モナークスに入団。プロ野球選手生活をスタートさせたが、実はトライアウトでは不合格を通告されていた。それでも「テスト生にしてくれ」と通い続け、チームが根負けした形だった。

その後、豪州、米国の独立リーグを渡り歩き、計7球団で内野手としてプレーしたが、メジャーリーガーになる夢は果たせず、27歳で断念し帰国した。3年間ほどは都内で英会話スクールの営業職に就いていた。

一時は野球から離れていたが、胸にはくすぶり続けているものがあった。31歳にして「自分の気持ちに区切りをつけるため、記念受験のつもりで」と再渡米。トライアウトを受けた。そこで米独立リーグのビクトリア・シールズの監督から「コーチをやってみないか」と声を掛けられたのだから、人生は何が起こるかわからない。これをきっかけに、独立リーグ5球団のコーチを歴任することになった。

当初は薄給で、選手がシェアしている一軒家のリビングに寝泊まりさせてもらった。若い選手たちが騒々しくて眠れず、1畳ほどのボイラー室に寝たこともある。「蜘蛛の巣が張っていたのを掃除して、マットレスを入れました。扉が閉まるので、最低限のプライバシーが保たれました」と笑う。過酷な環境にしか聞こえないが、本人は「僕は全然メンタルをやられなかった。なぜなら楽しかったので。住むところなんてどうでもいい。グラウンドへ行けば野球があって、あらゆることを教えてくれるコーチがいましたから」と、どこ吹く風だ。

2016年、翌17年にはソノマ・ストンパーズで監督を務め、所属リーグで最優秀監督賞を受賞。一方で、最高峰のMLBに対し“就活”を怠らなかった。2月の春季キャンプ期間中には、レンタカーを借りてメジャー球団のキャンプ地を回り履歴書を渡した。「最初は採用情報もないし、誰に渡せばいいのか分からない。受け取ってもらえないことも多く、球場のもぎりの方に押し付けたこともあります」と明かす。やがて、履歴書の送付先を調べ上げると、毎年メジャー30球団に2通ずつ、マイナーの統括責任者とスカウティングディレクターに送りつけるようになった。「通算180通出しましたが、返事が来たのは3通でした」

開かれる「日本人初のメジャーリーグ監督」への道

こうした地道な就職活動も実り、2018年にツインズ傘下のエリザベストン・ツインズ(ルーキーリーグと1Aの中間レベル)のコーチとして採用された。2020年にはガルフコーストリーグ・ツインズ(ルーキーリーグ)の監督に抜擢され、今季もフロリダ・コンプレックスリーグ・ツインズ(同)で指揮を執った。MLBの監督の人選は現役時代の実績に関わらず、指導者としての経験が重視される傾向が強いだけに、三好さんの目の前には「日本人初のメジャーリーグ監督」への道も開かれている。

100人中99人が諦めそうな状況であっても食い下がり、自分の居場所を作っていった三好さん。その強さはどこから湧き出るのだろうか。「諦めが悪いのです」と照れ笑いを浮かべた後、「心って筋肉みたいなものだと思う。最初にバーンと跳ね返された時は落ち込みますが、それを重ね経験則が付いて要領が分かってくると、回復が早くなる。特に若いうちは、たくさん失敗しておいた方が心は強くなると思います」と言った。

そして、こう付け加える。「物事を簡単に諦めてしまう人が多いように見えるのは、たぶん、何をしたいのか、何のために戦っているのかということだと思います。僕は自分が良くなりたいだけではなく、日本の野球界をこうしたい、これが絶対に必要だと思ってやっているので、出る力も違うと思います」。

シーズンオフには毎年帰国し、少年野球の指導や講演活動を行う。さらに今オフには、建設業などを営む「株式会社日本晴れ」が創設した社会人野球チーム「Nbuy(エヌバイ)」の臨時コーチに就任。来年から都市対抗出場を目指す新チームを指導している。18歳の時に抱いた志は、時を経ても少しも変わっていない。(宮脇広久 / Hirohisa Miyawaki)

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